●被爆前の生活
私の実家は安佐郡鈴張村(現在の広島市安佐北区)にあり、祖母、母、兄一人、姉二人と私の六人家族でした。私が三歳の時に父が亡くなり、それからは、母が呉服などの衣料品を扱う店を営み私たちを育ててくれました。しかし、戦争が進むにつれて生活必需品が不足し、衣料品が切符配給制になると店を続けることも難しくなり、役場に勤務していた次姉の収入が家計を支えるようになりました。こうした状況でしたから、私は家に近い八重実業学校(現在の県立千代田高等学校)には行かず、白島中町にあった簿記学校に行き、卒業後、府中町の東洋工業株式会社に就職しました。
昭和二十年、私は十七歳で、会社の敷地内にあった女子寮に住んでいました。経理部会計課会計工費係に配属された私の仕事は、鋳物工場、熱処理工場、それに数名が所属する研究所の合わせて三百五十名から四百名ぐらいの職員の給与計算でした。朝八時から夕方五時までの勤務で、毎朝八時になると一門に出勤した工員のタイムカードを取りに行きました。東洋工業には正門のほかに一門から四門まで全部で五つの門があり、一門が私の担当でした。
東洋工業では、金属製のバルブやボルトなど飛行機の部品のほか削岩機や三輪オートバイを作っていました。多くの男性が徴兵で軍隊に入隊し、工場で働いているのは女性、高齢者や病弱な人たちが多く、旋盤で出たや鉄くずの運搬などの力仕事は、男子寮に住んでいた朝鮮から連れてこられた徴用工の人たちがさせられていました。
●八月六日
八月六日、いつもと同じように、出勤してきた職員のタイムカードを取りに友人と二人で一門に行く途中でした。突然、ピカッと光った後、爆風とともに「どか~ん」という音がしたので、二人とも驚いてその場にぺたりと座り込んでしまいました。おもむろに、空を見上げると、広島方面に白い煙がものすごい勢いで立ち上り、そのうち黒く変わっていくのが見えました。まだ、雲のように広がってはいませんでした。私たちは、あまりに大きな音とその煙に驚いて、すぐそばの一門の守衛所に「守衛さん、今の音は一体なに」と言いながら飛び込みました。中にいた二、三人の守衛さんと「広島瓦斯のタンクに焼夷弾が落ちたんじゃろう」、「ああ、そうか」といった話をしました。
しかし、九時頃からでしょうか、けがややけどをしてぼろぼろになった被災者たちがトラックで工場内に次々と運び込まれてきました。その日は、鶴見橋のあたりに建物疎開作業に職員が出動していたので、その救援に行ったのでしょう、正門も一門も関係なくひっきりなしに運び込まれてきました。建物の中の入り口あたりに運び込まれた人もいましたが、あまりにも多いため、ほとんどの人はグラウンドにござや敷物を敷いて寝かされており、その姿は、それは、それは筆舌に尽くしがたいものでした。私たちは日頃から看護や手当ての方法を教わってはいましたが、手を吊るとか、包帯をするとかそんな看護の仕方ではどうにもならないほどの惨状で、医務室に常備されていた薬も包帯もすぐに底をついてしまいました。十七歳の私は、なすすべもなく、上司の指示にただおろおろと従うだけで、人々が苦しむ姿を見て、怖くて、怖くてどうすることもできませんでした。
夕方からは、男子寮で朝鮮出身の徴用工の人たちの看護をしました。農家の人が「やけどにはジャガイモが効くから、すって貼ってあげたらいいよ」と言って小さなジャガイモを持ってきてくださったので、それをすって患部に貼ってあげてました。その日はそのまま女子寮に帰りましたが、翌日行ってみると、もう傷口にはウジがたくさんわいており、それを取るのが大変でした。
がら空きだった女子寮の一階にも大勢の負傷者が運ばれていたので、寮に帰っても負傷者の看護で夜も眠れない状態でした。水を与えたら死んでしまうと言われていましたが、「もう亡くなるのが分かっているのだから、水をあげよう」と言って、乞われるままに水や重湯を差し上げましたが、飲むと間もなく亡くなっていかれました。
●被爆者の看護
翌日からも同じような状況が続きました。タイムカードは機能していませんし、敷地内には自由自在に出入りができ、工場の操業も止まり、とても仕事をするような状態ではありません。そのため、私たちは朝から夜中まで負傷者の看護に当たり、亡くなっていく人たちを看取っていきました。
グラウンドには遺体が山のように積まれ、薪に火をつけて荼毘に付されました。しかし、雨が降ったりして、半焼き状態になった足や手を夜中に野犬がちぎってくわえていき、爆風で壊れたガラス窓からでも入り込んだのでしょう、建物の中にもあちらこちらに遺体の一部が散らばっており、その様子はとても気持ち悪く、そして無残な光景でした。食堂に散らばっていることもあり、その時は食事をするどころではありませんでした。
また、朝鮮から連れてこられた徴用工の人たちのことは特に忘れられません。建物疎開中に被爆し、皆一様にひどいやけどで焼けただれており、「アイゴー オモニー(お母さん)、アイゴー オモニー」と泣きながらたくさんの方が亡くなっていきました。こうして亡くなっていく方々がかわいそうで、私にできることは看護することと思いながら一生懸命看護をしました。彼らは、生前は重たいものを運ぶなどの重労働や食堂の残飯処理などの仕事をさせられており、また、今では考えられないことですが、みんなから蔑まれていたり、いわれのない差別を受けていました。こうして異国の地で亡くなられた朝鮮の人々はその後どこでどのように埋葬されたのでしょうか。その時の様子を思い出すたびに今でも胸が熱くなります。
●我が家を目指して
六日から八日までの三日間は、こうした負傷者の看護の連続で心身ともに私は疲れ果ててしまい、また、とても怖くて、実家にただただ帰りたくてたまらなくなりました。そこで、思いきって少しだけの荷物を持ち、職場に連絡もせずに黙って鈴張に帰ることにしました。
八月九日の朝早く出発し、東洋工業のある府中町から大洲を通り広島駅に出て、饒津神社の近くにある常葉橋を渡り、白島に出ました。広島市の中心部に近づくにつれて、家という家は倒壊し、すべてのものが崩れ落ち、何もない焼け野原のあちらこちらで煙が上がっている光景を目の当たりにしてびっくりしました。東洋工業は爆風で工場の屋根が飛び散り、明かり採り用の窓がストンと抜けたりしましたが、建物そのものが崩れ落ちることがなかったので、入市した時の、何もかも廃虚と化し、死臭の漂う市街地の様子は地獄絵図そのものでした。
饒津神社近くの旅館にはタヌキの看板があり、その看板を見ると「横川に近づいた」という気になったものですが、おそらく爆風で吹き飛ばされてしまったのでしょう、その姿も見当たりません。西練兵場があった白島辺りでは兵隊さんや馬がたくさん死んでいました。ほとんど裸の状態で、水膨れで膨れ上がった兵隊さんたちの遺体が、三日たった八月九日になっても放置されたまま横たわっていました。なぜ裸なのか分かりませんが、服の切れ端が少しだけくっついている程度でした。また、馬も同様に水膨れ状態で、脚を空中に突き出したままあお向けに倒れていました。それから、異臭がする中、遺体を避けながら欄干がなくなった三篠橋を渡り横川駅まで行きました。横川駅には真っ黒に焦げた電車の残骸がありました。
行方の分からない身内の人々を捜しておられたのでしょうか、至る所でたくさんの人々がぞろぞろと行ったり来たりしていました。まだ終戦になっていませんでしたので、皆防空頭巾を被り、今度はどこに爆弾が落とされるかと心配していました。
こうした光景はまさに地獄そのもので、殺人以外の何ものでもなく、こんな戦争があるのかと思いました。会社から横川駅にたどり着くまで私はとにかく遺体などをできるだけ見ないように真っすぐ前を向いて歩き続けました。
九時か十時頃に横川駅に着いたと思います。横川駅に行けば可部線の汽車が走っているだろうと思ったのですが、結局、横川駅からは出ていませんでした。途方に暮れ、泣きそうになっていると、男の人が長束駅(現在の広島市安佐南区)まで行けばトロッコ列車が走っていると教えてくださいました。それで、長束駅までさらに歩き、ようやくトロッコ列車に乗ることができました。普段は炭や米などを積むトロッコに大勢の人がつかまっていました。私も飯室村(現在の広島市安佐北区)の安芸飯室駅まで必死でつかまっていました。駅からは徒歩で鈴張まで帰りました。
鈴張でもやけどした人々がたくさんお寺に収容されていましたので、母や姉や町内の人々が被災者の看病に当たっていました。
家に帰ってから二、三日すると、会社から「職場に復帰するように」との電報が届きました。市内に在住していた経理部の会計担当職員のほとんどが出勤できなくなったので、事務を処理するためには、寮に入っている人や坂や海田方面から来る人だけが頼りだったわけです。それで、仕方なく、とことこと歩いて会社に戻りました。しかし、会社に戻っても事務所は手のつけようのないほどのありさまでした。
●終戦
会社に戻ったのは、終戦の直前の十二日か十三日だったと思います。そして、八月十五日、今から大本営の発表があるので直立不動の姿勢で聞くようにと言われ、ラジオから流れる陛下の声を聞き、みんな泣きました。今、その時の様子を思い出しても涙が出ます。「ああ、よかった、戦争がやっと済んだ」という安堵の思いが半分と「戦争に負けたのだ」という思いが半分でした。「ああ、これで戦争が終わった。これからは、よくなるかな」と思いながらも、「アメリカが入ってきたらいたずらされる」とか、「いじめられる」とか、周りの人がいろいろなことを言うので不安もありました。しかし、アメリカ人は子どもを見ると「来い、来い」と呼んでチョコレートをくれるなど、優しくしてくれ、周囲が心配するようなことはありませんでした。
終戦後だんだんと事務に携わるようになりましたが、それでも、日中は事務をして、寮に帰ってから被災者の看護をするという日々が続きました。看護といっても包帯も赤チンも何もないので、けが人に声をかけるぐらいしかできず、ただ、死んでいくのを看取るだけでした。結局、どうしても家に帰りたくてたまらなくなり、二、三か月ぐらいして退職しました。
●戦後の生活
戦後の混乱が続く中、実家に帰っても仕事がない状態でした。私が家を出れば少しでも家計が助かるかもしれないと思い、縁談の話があったのを機に、十八歳で結婚しました。嫁入り道具をそろえようにも売っていないので、母のお古をもらいました。結婚した主人の勇三は陸軍中野学校を卒業し、戦時中は憲兵をしていました。原爆投下の八月六日には、猫屋町の光道国民学校内にあった中国憲兵隊広島憲兵分隊におり、当番に当たっていたため四、五人で屋内にいたそうです。朝礼で屋外に出ていた人たちは全員亡くなり、屋内にいた主人は落下物の下敷きになり頭と腰の辺りをけがして、意識が二、三日戻らなかったそうです。緑井村(現在の広島市安佐南区)のおじいさんが毎日捜し歩いて、似島に送られているということを聞きつけて迎えに行き、緑井に連れて帰ったそうです。
主人は憲兵だったため、戦後は警察に留置されたり、家宅捜索されたり、公職追放により国鉄を辞めさせられその後は職を転々とするなど、いろいろ生活していく上で苦労もありました。そして、昭和六十三年に肺がんで亡くなりました。私も、昭和五十八年には大腸がん、平成十三年に胃がんの手術を受けましたが、お陰様でなんとか現在まで過ごすことができました。
●平和への思い
私たち夫婦は二人とも原爆の惨禍に遭いましたが、お陰様で二人の子ども、そして三人の孫に恵まれました。しかし、被爆当時、朝鮮半島から徴用工として連行された方々をはじめ、戦争の犠牲となられた方々のことを思うと、今でも胸が締め付けられる思いです。原爆による犠牲者のご冥福を心からお祈りしたいと思います。
次男が学校の平和学習の一環として被爆体験証言の聞き取りの課題が与えられた時のことです。それまでは体験談を話したくなかったので長男にも全然話したことがありませんでした。たまたま、次男の学習で必要ということで、尋ねられるままに亡くなった方たちの様子や看護の状況など被爆のことを話して聞かせましたが、平和な時代に育った次男は、「うそ、本当にそんなことがあるの」とその惨状をにわかに想像することができない様子でした。
的場町で看護婦をしていた兄嫁は病院で下敷きになり、火が迫ってくる中、大きな声で叫んで誰かに引きずり出してもらい、なんとか助かったそうです。また、知人や親戚たちの被爆体験を聞けば聞くほど、戦争の非人道性や残酷さを痛感いたします。原爆の犠牲になった方々や戦争に子どもをとられ、特攻隊などで子どもの命を失われたご家族のことを考えると、戦争をしてはいけないし、させるべきではないと本当に心から思います。一人でも多くの方々に戦争の悲惨さを知っていただき、二度と私たちと同じ思いをさせないためにも、被爆体験や戦争体験はぜひ後世に残しておくべきだと思います。日本にも実際こんな時代があって、その犠牲者の上に今の日本の若者がいるということを伝えてほしいのです。
私は、今、「今日を楽しく暮らそう。今日を何事もなく明るく笑って暮らそう。人を絶対に非難しない」ということをいつも思っています。明日のことは分かりませんが、縁あって触れあう人々ですから、皆(みな)と仲良くし平和に暮らしていきたいです。 |