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縹渺たる心境 
橋本 清兵衛(はしもと せいべえ) 
性別 男性  被爆時年齢 23歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2014年 
被爆場所 広島市(西観音町)[現:広島市西区] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 中部軍管区大阪陸軍需品支廠 広島出張所 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の暮らし
被爆前、私は草津東町というところに、妻と両親の四人で住んでいました。両親は銭湯を営んでおり、私はその手伝いをしていました。

そのころの食糧事情は、とても厳しいものでした。草津授産場から、芋団子の配給がありましたが、そのままではとても食べられるようなものではありませんでした。そのため、団子を薄く煎餅のように伸ばして、網で焼いて、代用醤油をつけて食べたりしていました。代用醤油というのは、海藻を煎じて黒い色をつけ塩を混ぜたものです。

お米は、重労働をする人は四合、一般の人は二合三勺の配給がありました。あとは、芋の茎を取って皮をむいてフキのようにしたものにアサリを混ぜて煮付けるなどの工夫をして、おかずにしておりました。

昭和十八年頃に、私は呉市吉浦町の呉海軍工廠火工部という爆弾工場に徴用されました。結婚して十日くらいしてからのことでした。心臓に持病があったため、海軍病院に入院し、家に戻ったのですが、その後、安芸郡矢野町(現在の広島市安芸区)の大阪陸軍需品支廠広島出張所へ再度徴用されていました。当時私は二十三歳でした。
 
●いとことの相撲
昭和二十年の五月に、海軍にいた四歳年下のいとこが訪ねてきました。白い士官の夏服を着ていました。あのころの海軍はスターで、憧れの的でした。いとこと一緒にいると、女の子がキャアキャア言うので羨ましかったです。

いとこが「お兄ちゃん、相撲を取ろうや」と言うので、近くにある国民学校の校庭に行きました。ツツツーッとすぐに負けてしまうのです。足が滑るからではと思い、「こりゃ、ほんまの土俵でやらにゃあいけん」と、土俵がある龍宮神社に行きました。でも、どうしても勝てません。私も足腰には自信がありましたが、いとこは海軍相撲で鍛えていて、まったく歯が立ちませんでした。

私が「おかしいのう」と言うと、いとこはアハハと笑っていました。いとこは帰るときに、海軍士官の帽子をかぶった自分の写真を置いていきました。

いとことは、これが最後の別れとなりました。本人は口に出して言いませんでしたが、実は特攻で人間魚雷に乗るからとお別れのあいさつに来たのでした。たとえスターでも死ぬために戦争に行くのですから、かわいそうです。今でも時々線香をあげています。
 
●八月六日
需品支廠では一日行って次の日は一日休みという特殊な勤務で、その日はちょうど休みでした。

私は朝早くから製材所に風呂炊きの燃料となる鋸屑を取りに行き、その帰りに爆心地から約一・五キロメートルの西観音町あたりで被爆したのです。

ちょっとひと休みしようと思い、建物のそばの防火水槽にもたれかかるように腰を下ろしていたとき、チリチリチリと紫色の光が走り、その後ものすごい爆風が来ました。天地鳴動とはまさにこのことだと思います。しかし、建物と防火水槽の陰にいたため、大したけがもせずに済みました。

自宅に帰ると、銭湯の壁面はタイルが皆爆風で飛んで、骨組みだけになっていました。火事にならずに済みましたが、近所も皆同じような状況でした。

妻はその日、小網町の方へ建物疎開の手伝いに行く予定になっていましたが、草津南町の人に七日と代わってほしいと言われ、八月六日は家にいました。

もし、妻が予定通り建物疎開に出ていたら、おそらく助かっていなかったことでしょう。

草津南町からは建物疎開の作業に行って、たくさんの人が亡くなっています。草津の住吉神社には犠牲者のための碑があります。
 
●原爆が落ちて
隣の家の人が原爆にやられて体じゅう真っ白になって帰ってきたというので、見舞いに行きました。その人は蚊帳の中で寝ていました。

「どうしたん、おじさん」と聞くと「やられましたあ」と言っていました。

そのとき、その部屋に漂っていた麦踏機を使ったときのような臭いが今でも忘れられません。

また、隣組の娘さんが家に帰ってこないというので、六、七人で大八車を引いて救護所に指定されている己斐国民学校へ捜しに行きました。

途中、避難して空き家となったところに勝手に上り込んで、布団を出して寝ている人びとを見かけました。

国道では、今の己斐の消防署のところに、被災した人たちがたくさん横たわっていました。大竹からの救援隊だと思いますが、メガホンで「大竹の者はおらんかあ」と呼びかけていました。そして、その人たちを車に乗せて連れて帰っていました。

私たちが己斐の別れの茶屋あたりをガラガラと大八車を引いていたら、「大正湯の兄やん、連れていんでつかあさいや(連れて帰ってください)」という声がしました。

「あんたは誰や」と尋ねると、同級生の弟で私より四つ、五つ後輩でした。その人は、松並木にうずくまるように座り込んでおりました。

私は「待て、待て、わし、今、隣組の人を助けに己斐の国民学校に行かにゃいけんけえ、戻りには寄ったるけえ、そこに座っとりんさい」と言って先を急ぎました。

しかし、帰りにそこを通ってみると、もうその姿はありませんでした。おそらく、別れた後に亡くなって、警防団に運ばれて行ったのではないかと思います。

これも忘れられないつらい思い出のひとつです。

己斐国民学校の講堂に行くと、女の人は皆ほとんど衣服をつけていない状態です。言葉がよくないのですが、体はまるで魚市場に並んでいるマグロのように黒光りしていました。

私たちがそばを通ると、足に抱きついてきて「水うー、水うー」と言うのです。でも、当時はやけどに水は禁物と言われていたので、水を飲ませてあげることはできませんでした。

結局、隣組の娘さんを見つけることはできず、私たちは家に帰りました。
 
●親戚の夫婦を荼毘に付す
その日の夕方、父のいとこになる夫婦が私の家に担ぎ込まれてきました。その夫婦には子どもがなく、私の親戚だからということで町内の人が連れてきたのです。

真夜中の二時頃には、奥さんが炊事場にある断水した水道から滴るしずくを飲みにきて倒れ、そのまま亡くなりました。夫のほうも、次の日の昼頃に後を追うようにして亡くなりました。

ふたりを看取った私は、材木を削って二人分の棺桶をつくりました。

それから、草津南町の荒手というところの山道を手押し車に棺桶を乗せてゴロゴロと登って行きました。

山道は、コンクリート舗装はしてあるものの、砂で足が滑りやすく、それを我慢しながらひとりで焼き場まで運んだのです。

途中、空襲警報が鳴り、その恐怖にも耐えての作業でした。そのときは「死んだ者の方が楽だ」と本当にそう思いました。

当時、火葬のときには、割り木が一人十三杷、むしろが八枚の配給がありました。その割り木を棺桶の上下、周囲に置いて、びしょびしょに濡らしたむしろ八枚で包み、火をつけて帰りました。濡れたむしろで蒸し焼きにしないと、きれいなお骨にはならないのです。そのままでは外側が焦げるだけですので、谷川まで行って濡らしたむしろを運ぶのも大変な作業でした。

あくる日に見に行ってみたら、真っ白い、きれいなお骨になっていました。その骨を白い骨壺に入れて、家に持ち帰りました。

疲れ切って家に帰ると、今度は骨組みだけとなった銭湯の壁面に板を張る作業に取り掛かりました。銭湯がいつでも再開できるように修理をしなければなりませんでした。

実際に銭湯を再開できたのは、昭和二十年十一月頃でした。

広島中に風呂がなかった頃ですから、開店前からずーっと人が並んでいました。店が開いたらダーッと入って来られるので、いくら焚いても追いつかないほどで、毎晩十一時まで父親と一緒に働きました。
 
●街の様子
あくる朝、陸軍需品支廠広島出張所へ行く途中、相生橋にさしかかると、橋の途中に黒焦げの電車があり、その中には、同じように黒焦げになった人が三十人くらい亡くなっていました。

相生橋の欄干に縛り付けられたまま亡くなっている米兵も見ました。そこを通る者に棒で殴られたり、石を投げつけられたりして惨殺されたのだと思います。そこを通るときは、いつもそのことを思い出して拝んでいます。

のちに原爆ドームと呼ばれる広島県産業奨励館あたりには、短剣をつけた兵隊が広島城の方を向いて「気を付け」の姿勢で立ったまま死んでいたのが記憶に残っています。金歯が見えて年配の兵隊でした。そこを通るときもやはり、いつも拝んでいます。

焼け野原となった広島は、向こうの方まで見渡せ、遠くでもすぐ近くのように見えていました。
 
●終戦を迎える
終戦の八月十五日よりも前だったと思いますが、需品支廠広島出張所から呼び出しがありました。「諸君は長い間ご苦労じゃった、何でも要るものがあったら持って帰ってよろしい」という訓示がありました。陸軍の中枢では、日本の無条件降伏が間近いことをすでに知っていたようでした。

私は備長炭三十俵ほどをもらい、出してもらったトラックにそれを積んで自宅へ持って帰りました。

帰る途中、富士見町辺りに来たとき、ショボショボショボと雨が降り始めました。そのとき、焼け野原にボウボウボウボウと燃える火の玉を見ました。ボーッとした青い炎で、芝居に出てくる幽霊の火の玉と同じでした。

「あの辺りでたくさん死んどってんじゃね」と思い、しばらくの間その壮絶な光景をまざまざと見ていました。
 
●今日まで生きて
私は心臓弁膜症という持病がありましたが、十数年前に腹膜炎を患った程度で、これまで大きな病気はしておりません。おかげさまで、心豊かに日々の生活を過ごさせていただいています。

これは、両親の力だけでは及ばず、代々蓄えられたものが今与えられているのだと、ご先祖さまのおかげであると思うようになりました。

そう考えると、次に残る者のために、ご先祖さまと同じようにしておかなくてはと、自分を戒めております。
 
●平和への思い
次の世代も大変な時代を迎えることでしょうが、被爆のような想像を絶する体験というのは、この世の終わりを迎えることに近いことです。今度、同じようなことがあれば、私のように回顧談をすることもできないでしょう。これは、人間の欲と邪心がもたらした結果です。

今のように平和が当たり前の時代に、平和の尊さも体験せずに、平和だと思っている人には一度そういう苦節の体験も必要なのではないかと思います。

与えられた平和ではなく、自らが苦難と苦節を体験した末にこそ、思いの深い、温もりのある平和を獲得できると私は考えております。 

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