●被爆前の状況
その頃、私は宇品国民学校の四年生でした。父は当時四十一歳で、陸軍船舶司令部に所属し、一年のほとんどの期間を、軍用船に乗り外地へ出ており、宇品町の家には半年に一度帰ってくる程度でした。母は当時三十一歳で、産婆をしていたので、市内が危険になっても、患者さんがいるため、疎開はできなかったようです。一歳五か月の妹と、八十歳になる父方の祖母も、家にいました。また、朝鮮で造船所を営んでいる伯父が、息子を内地の学校に通わせたいということで、いとこを私の家で預かっていました。
●学童疎開の思い出
昭和二十年の四月頃、宇品国民学校の三年生から六年生までの児童は、県北の三次町、作木村、布野村(現在の三次市)に分散して学童疎開することになり、私たちは三次町のお寺に行きました。
お寺での食事は、大豆ばかりでした。ごはんは、大豆に米粒が付いたようなもので、おやつも大豆です。
お寺の近くに巴橋という大きな橋があり、その横に神社があります。そこには大きな桜の木があって、サクランボがなりました。上級生は木に登り、サクランボを取って食べていました。何も知らない私は、上級生に呼ばれ木の下で外向きに立たされ、見張り役をさせられました。ちょうどその時、おじさんが怒鳴ってきて私を捕まえたのです。そして、木の上に向かって「みんな下りてこい」と言い、上級生たちも下りて来ました。手をつかまれて泣いている私に、おじさんは「どこの子か」と聞き、私が「お寺です」と答えると、「よしっ」と手を離してくれました。そして、おじさんから「ここの下には、タマネギやいろんなものが植えてある。それを踏みつけたら食べられなくなるだろう。絶対にこういうことをしてはいけない。もう泣くのはやめなさい」と言われました。その日の夕方、そのおじさんが、蒸したお芋などの食べ物を、私たちに届けてくれました。怖かったけれど、とても親切な人だと思いました。きっと、私たちがおなかをすかせてサクランボを取っていると、かわいそうに思ってくださったのでしょう。
疎開先には、時々、児童の親からお菓子などが送られてきました。しかし、それらが私たちの口に入ることはありません。私の母も、大豆をいってあめで固めたものなどを送ってくれましたが、全部先生に没収されました。
シラミもたくさんわいて、大変でした。新聞を広げて、その上で頭をすきます。血を吸って黒くなったシラミを、みんなでプチンプチンと潰しました。着ているシャツは、お寺の縁側の日当たりの良いところに広げて干しました。
●八月六日
原爆投下のちょうど一週間前に父が外地から戻って来たので、急きょ私も自宅に帰りました。そして、八月五日には疎開先に戻る予定でしたが、汽車の切符が取れず六日になりました。
八月六日の朝、母は妹を背負って広島駅まで私を見送ってくれました。近所のおばあさんが三次に疎開している孫に会いに行くというので、私と一緒に汽車に乗りました。芸備線に乗り、最初のトンネルに入る手前で、落下傘が三つ見えました。そして、そのまま汽車はトンネルに入り、その瞬間、爆弾がさく裂したのです。
ものすごい衝撃で、耳にダーンと響きました。私は座っていたので大丈夫でしたが、立っていた人は、大人の人でも、後ろにひっくり返って転んでいました。石が詰まったような感じで、耳がよく聞こえません。
トンネルから出ると、原爆の煙がものすごくきれいに見えました。一緒にいたおばあさんと「わぁ、すごいねぇ」と言って見ていました。子どもですから、広島がどうなっているかなんて、想像もつきませんでした。
三次に着いた時、おばあさんが「広島は全滅だと、ラジオが言っている」と教えてくれました。しかし、どんな状況かは分からないまま、お昼には、草取りのため学校へ行きました。その時初めて、学校へ広島の被災者を乗せたトラックが入って来ました。ひどいやけどをした人々がトラックからどんどん降りて来て、私はびっくりしました。
●家族の被爆状況
原爆が落とされて三日ほどたった頃、広島の家族からお寺に連絡が入りました。それから、八月十二日か十三日頃、近所の信ちゃんという六年生の男の子と一緒に、汽車に乗って広島へ戻りました。広島駅には、父が迎えに来ていました。父と一緒に、比治山の横の道を通って家族の様子を聞きながら、家まで歩きました。
家に帰ると、母は、全身にシーツを巻きつけられた状態でした。全身やけどで、やけどからウジがわくため、シーツでくるんでいたようです。妹も、顔全体にやけどをして、真っ黒に焦げていました。手足も、ひどいやけどで、やはりシーツが巻きつけてありました。幼かった妹は、母の姿を見て怖がり、ずっと泣いていました。
原爆が落とされた時、母と妹は、猿猴橋の電停で電車を待っていたそうです。その一時間程前、警戒警報が発令された時に、防空頭巾を忘れたと言う近所のおばあさんに、母は自分の防空頭巾を貸してあげました。そのため、母は、原爆の光をまともに受けたようです。妹は、母の背中に負われていて、左足と左手、顔にやけどを負いました。母は、妹を背中から下ろし、途中あちこちにある防火用水に妹を漬けながら逃げ、広島駅の裏の東練兵場に避難したそうです。
祖母は、自宅で被爆しました。自宅は焼けませんでしたが、建物は相当傷みました。
父といとこは、母と妹を捜して、丸二日間市内を歩きまわりました。見つかった時、母は、男か女か分からないくらい、やけどで体が膨れ上がっていたそうです。母は、八月六日の日、たまたま父が外地から送った服地を使って作った服を着て出かけていました。母は、かろうじて焼け残った服の切れはしを、妹の手に、目印として結び付けていたそうです。父といとこが捜しに来た時、一歳の妹がいとこに気付き、「あーちゃん」と呼びかけました。そして妹の手の布を見て、二人を見つけることができました。母は「もう私はだめだから、子どもだけ連れて帰ってください」と言ったようですが、父は二人を大八車に乗せ、家に連れて帰りました。
●母の死
母は、八月十五日に亡くなりました。遺体は、父が古い木を使って簡単な蓋のない棺桶を作り、家の裏の空き地で焼きました。そこでは、みんなが遺体を焼いていたので、その臭いが全部家の中に入ってきて、臭くって臭くってたまりませんでした。
母の最期の言葉は、祖母に言った「お義母さん、大きいジャガイモが食べたい」です。戦時中は食糧不足で、着物や色々な物を田舎に持って行って、ジャガイモなどの食糧と交換していました。母は、物々交換で手に入れたジャガイモの中から、小さいものを食べていたのでしょう。小さなジャガイモは、えぐ味が強く、今ではとても食べられません。
母の供養のために、灯ろう流しには毎年必ず来ています。大きなジャガイモをゆでてお供えします。今でも大きなジャガイモを見ると、母に食べさせてあげたいなと思います。
●戦後の町の様子
宇品国民学校の上の土手が、広い範囲で焼き場として使われました。まわりをトタンで簡単に囲い、死体を焼いていました。トタンには、死体の頭の位置で穴を開けてあります。私たち子どもは、死体の焼けているそばを通って、海へ泳ぎに行っていました。だから、「あっ、今、頭が燃えている」と思ったり、骨もたくさん踏んづけたりしながら通りました。私が、小学校六年生になる頃まで、その辺りは焼き場として使われていたと思います。
戦後は、本当に情けなく惨めな生活でしたが、自分の家だけでなく、当時はみんな同じような生活でした。
●妹の戦後
母と共に被爆した妹は、助かりました。その時、妹のように幼い年で助かったのは奇跡だと言われました。妹は、みんなから「助かってよかった、生きていてよかった」という言葉ばかりを聞いて育ちました。
しかし、妹の足には、ひどいケロイドが残り、変形してしまいました。靴が履けないので、ずっと下駄を履いて過ごしました。当時は下駄を履いている人も多かったので、普段は平気でしたが、遠足や運動会の時には、下駄が履けないので困ります。しかたなく軍足を二枚重ねて履いて行きました。
足のことが原因で、妹は、ひどいいじめに遭うようになりました。当時は、原爆の病気は伝染するとうわさされていたので、妹を指さして「指が腐る」とか「近くで見ると、うつる」とか言う人がいました。原爆から何年もたって、妹が小学校に通うようになってからも、見せ物のように扱われ、遠くから見物に来る人もいました。
けれど、妹は、私や祖母に、人からそんな扱いを受けていることを言いませんでした。自分のつらさを訴えることもなく、ただ「おばあちゃん、生きていてよかったでしょ、私は」と言っていました。幼い時より言われ続けた言葉から、「自分は生きていてよかった。だから、こんなやけどをしても、生きていたからよかった」と考えようとしていたみたいです。最近になって妹の手記を目にしました。その中に「その時は、生きていないほうがよかったと思っていた」と書かれているのを見た時、あらためて本当につらかったんだなと思いました。
足の手術は、十五歳くらいにならないとできないと言われていたので、高校の夏休みに、念願の手術を受けました。妹はいつも、高校に入ったら靴が履けるようになると言って、楽しみにしていました。しかし結局、妹の足は、靴が履けるようにはなりませんでした。おなかとお尻の皮膚を移植し、足の変形も治そうとしましたが、移植した皮膚は黒く変色し、足の小指は三センチ程ずれたままです。手術前「運動靴もちゃんと履けるようになる」と言っていた妹は、六十五年たった現在でも、まともに靴は履けません。
小指が擦れて痛いので、運動靴に穴を開けて履きましたが、今度は穴を開けたところが擦れて、傷になりました。妹の足は、血の出ていない日がないくらいでした。血が付くとみんなに汚く思われるからと、歯磨き粉を血の付いたところへ塗っていました。
妹は、赤十字・原爆病院に入院している時に、原田東岷先生と知り合い、「何か相談事があったら、いつでも言ってください」と言われたそうです。高校を卒業する際に、原田先生に相談し、ロサンゼルスに住む日本人の牧師さんを紹介していただきました。当時は、妹の高校入学前に父も亡くなっており、わが家にお金の余裕はありませんでした。妹は、高校の先生にアルバイト先を紹介してもらい、一生懸命働いて、二十歳の時にようやく片道分の旅費をため、アメリカに旅立ちました。
牧師さんのところでお世話になりながら、洗濯屋で働いて生活費を稼いでいたようです。いろいろと大変な苦労をしたと思いますが、現在もロサンゼルスで頑張っています。本人は、もう自分は普通に結婚できないと思っていたようですが、向こうで日本人の方と結婚し、三人の子どもに恵まれました。
●大阪での出来事
ちょうど妹が足の手術を受けて一週間ぐらいたった頃に、私は大阪に住む友達のところへ遊びに行きました。妹が「もう私の容体は安定したから、お姉ちゃん、行っておいで」と言ってくれました。
準急列車で夕方に着いたのですが、友達の家が分からず、近くの交番で尋ねました。若い警察官でしたが、とても親切に一時間近くも私に付いて探してくれました。やっと友達の家が見つかり、「ありがとうございました。本当に助かりました」と言った時、はじめて警察官から「どこから来られたのですか」と聞かれました。私が「広島です」と答えたとたん、その人はパッと一歩下がり「あの原爆の広島ですか」と言われます。「はい」と答えると、「僕は、広島の女性は気持ちが悪い。原爆に遭った広島の女性は」と、何か私がばい菌でもうつすのではないかという表情で言われました。それまで自分では、被爆したことを何とも思っていませんでしたから、ものすごくショックでした。
このできごとは、妹には話していません。大阪の友達には話しましたが、「妹さんが、そんな話を聞いたらかわいそうだから、絶対に言わないほうがいいよ」と言われました。私も、それからは絶対に、広島の人間だということを他人に言わないようにしています。
●洋服店での出来事
私が、十数年前洋服店で接客していた時の話です。見ず知らずの人が、突然妹の名を言って、「お姉さんですか」と私に聞いて来ました。「そうですよ。なぜ、ご存知なのですか」と聞くと、その人は古江に住んでいる人でしたが、そんなところまで妹のうわさは届いていたようです。
このことや、大阪でのできごと、これまでの色々なこともあり、私は、妹のアメリカ行きに賛成しました。いじめや偏見がある日本を出たい、自分のことを全く知らない土地に行きたいと思うのであれば、それが妹にとって幸せではないかと考えました。
●平和への思い
被爆者の本当の痛みというのは、やはり実際にそういう目に遭っていない人には分からないのではないかと思います。指でも、自分が切って初めて痛いと思う、人が切った分には分からないでしょう。だから伝えていくということは、本当に難しいことだと思います。
戦争は、心の底からの傷です。外傷だけではなく、色々な傷が残り、そして何十年たっても、その傷がうずくのです。妹は、戦争の話、原爆の話をとても嫌がり、そういう話をしていると、小さい時から必ずスッといなくなります。アメリカに渡ってからは、いつも濃いストッキングを履いて傷を隠し、原爆のことは一切言わないで過ごしてきました。
戦争は、絶対にしてはいけません。 |