●被爆前の生活
私は、両親、四男四女の十人の家族で、東観音町一丁目に住んでおり、三番目の子で次男です。被爆当時、十三歳で南観音町にあった広島市第二国民学校高等科の二年生でしたが、勉強することはほとんどなく、同級生とともに観音国民学校の警備をしたり、工場で高射機関銃の弾を荒削りしたりといったように学徒動員にかりだされる毎日でした。
●昭和二十年八月六日
八月六日当日も、本来ならば学徒動員で舟入南町の熊野製缶に出かけるはずだったのですが、下痢をしたために休み、朝から家で寝ていました。原爆投下直前、B29が飛んでいる音がすぐ真上で聞こえ、近くを低く旋回していると感じました。母が「B29だ」と言うので、私は寝ていた部屋の窓から外を見ましたが、B29は見えず、「見えない」と言ったその瞬間、閃光がはしりました。音は聞こえませんでした。その後の記憶がなく、気がついた時には、母が「さとるー、さとるー」と私の名前を泣きながら呼び、「なにも、うちに爆弾を落とさなくてもいいのに」と叫んでいました。あたりは暗く、十メートル先も見えません。暗闇の中で、「どうなっているのか?大丈夫か?」と言うと「わからない。何かに挟まれて下敷きになっている。」という母の声が聞こえました。何も見えず、何が起こったのかわからないまま、とにかく母のいるところにたどりついて、何とか母を助け出しました。その間どのくらい時間がかかったのかは覚えていません。それから、隣の奥さんに頼まれてやはり下敷きになったご主人を助けました。
一番下の双子の妹たちは近所の祖母の家に遊びに行っていたので、捜しに行きました。途中で、双子の上の妹と会いましたので、「おばあさんの家に行くから、ここで待っておけ」と言い、祖母の家に向かいました。祖母は、双子の下の妹や隣の家の子どもと一緒にいました。祖母に、隣の家のお母さんが家の下敷きになっているので助け出せと言われ、様子を見ると、家の中から、そのお母さんが家族を呼ぶ声がかすかに聞こえてきました。しかし、がれきの下になっていて、どこにいるのかわかりません。その家の前には工場があって、朝早くから操業していたのですが、そこから火の手があがり、工場の隣の観音院の方まで火がまわっていました。結局、隣の家のお母さんは助け出すことができず、その子どもだけ連れてそこを離れるしかありませんでした。その時の「助けて」というお母さんの何とも言えない声は今でも頭の中に残っています。
●川に逃れて
双子の上の妹を待たせていたところに戻ってみると妹の姿が見えませんでした。しかたなく、私は、祖母、母、双子の下の妹、隣の家の子どもと一緒に五人で火災を逃れて天満川の土手に上りました。その時、数人の人が、「これは新型爆弾だ」と口々に言っておられました。対岸の舟入はすでに火の海となっており、土手づたいに川下の方へ逃げようと思ったのですが、観音地区でもあちこちで火災が広がり、観船橋の手前にも火がまわっていました。そこで、川の中の方が安全だと思い、観船橋のたもとから石段を伝って天満川に下りました。川の中に入っていても、観音側からだけでなく対岸の舟入からも火の粉がどんどん飛んできている状況で、熱くてたまりませんでした。熱さに耐えきれないので、何かかぶるものを探しに、私たちと同じように川に逃げていた近所の角一さんのご主人と一緒に、一度川から上がりました。石段の途中には、何人もの人が倒れていましたが、その人たちをまたぐようにして土手に上がり、近くの家から布団を持ち出して、観船橋の上手側からまた川に戻りました。戻る途中も火災で熱くて息ができないくらい苦しかったです。その布団を水につけて、私たちと角一さんの夫婦とでかぶって熱さを防ぎました。胸から下は水につかって震えるくらい寒かったのですが、胸から上は火災で熱く、布団が焦げそうになると水に浸してまたかぶるということを繰り返しました。その布団がなかったら私たちは生きていなかったと思います。その時、対岸の舟入では火から逃れようとした人が、一人、また一人と川に転がるように落ちていくのを見ました。「被爆者は水を求めて川に入った」と言われますが、そうではなく火災で逃げ場がないので、川に入ったのだと私は思います。
いつ頃か時間はわからないのですが、「黒い雨」が降りました。体にあたると痛いくらいに滝のような激しい雨でしたが、それでも火災は収まらず、ますますひどくなるので、母が「アメリカが飛行機で空から油を撒いている」と泣きながら叫んでいました。雨とは思えなかったのです。
火災がひどく川にも火の粉がどんどん落ちてきていました。布団をかぶっていると息苦しくてたまりません。しかし、息苦しさに布団を少しでもあげると今度は火災の熱風が襲ってきます。母は双子の下の妹を、祖母は隣の家の子を抱いていましたが、よく離さなかったものだと思います。想像を絶する熱さと息苦しさで死ぬのではないかと思いました。あの苦しさは経験したものでないとわからないでしょう。
雨がやみ、周囲の火災がおさまっても熱くて、かぶっている布団がとれません。暗かった空が、夕方五時頃だったように思いますが、明るく晴れてきましたが、まだ熱くて布団がとれません。かれこれ、十時間前後、川の中で布団をかぶっていたと思います。夕暮れになって、ようやく熱さも少し治まってきたので、土手に上がろうとしました。すると、石段の所に、何人も人が倒れて亡くなっていました。その人達を踏みつけて上がるわけにもいきませんし、私の力では遺体を動かすこともできません。「どうしようか」「母に相談しようか」と思いましたが、とっさに遺体を川に落としてしまいました。今、落ち着いて考えてみれば、もっと別の方法があったのではないかと思いますが、その時は自分と家族が助かることで精一杯でした。このことはこれまで誰にも話していません。自分が川から上がるために、まるでごみでも落とすように遺体をこの手で川に落とした。このことは年を取ってからいつも思い出すようになりました。忘れることはできないし、忘れるわけにはいかない。生きている間は、苦しむと思います。
土手に上がった時、自宅の方と現在の平和記念公園の方面まで完全に焼けて、既に煙ひとすじ上がっておりませんでした。八丁堀方面がものすごい黒煙を上げて燃えているのが見えました。土手には、川に下りることができず焼け死んだ人が多くおられました。その人たちは、背中が真っ黒に焦げてうつぶせで、皆、川の方に頭を向けていました。そして、なぜか皆手首から先がありませんでした。火災で指が焼けてしまったのでしょうか? 不思議に思って見たので、よく覚えています。道路を歩くと、はだしだったため火災の熱でまだ熱かったです。道路にも黒焦げになって亡くなっている方が何人もおられました。
観船橋のところで、大やけどを負った女の人に「大芝へ帰りたいのですが、どちらの方向ですか?」と聞かれました。「この土手をまっすぐ行くと横川です」と答えると「横川まで出ればわかります」と言って歩いて行かれました。しかしもう歩くのもやっとの状態でした。この女性は、翌日、広電の鉄橋と天満橋の中間あたりで亡くなっているのを見ました。横川までたどり着くことができず、途中で力尽きて倒れたのだと思います。
それから、西大橋、旭橋と渡って己斐まで逃げました。その途中で、後ろから「あんちゃん、あんちゃん」と、双子の上の妹が追いついてきました。祖母の家に行く途中で会った後、はぐれてしまったのですが、誰かについて逃げていたようで、偶然にも何とか再会することができました。妹はほこりで真っ黒になっていました。
己斐の旭橋を渡ったところに兵隊がいて、けがしている者はいないかと声をかけられました。私は背中にすり傷を負っていて痛かったので、そこで赤チンを塗ってもらいました。幸いなことに五日市にいとこがいたので、そこに避難し、八月六日の夜はその家に泊まりました。
●家族の捜索
観音地区は何かあった時の避難先が地御前国民学校と決まっていましたので、翌日、母と二人で地御前まで出かけ、家族の消息を尋ねました。父の行方がわからないので、昼からは、地御前から己斐までトラックに乗せてもらい、己斐からは焼け跡を歩いて父を捜しました。当時、父は建具屋をしていて、八月六日は饒津神社に行く予定で原爆投下の十分ほど前にリヤカーを引いて家を出ていたので、リヤカーを手がかりに父が通ったと思われる周辺を捜しましたが、わかりませんでした。二日目、三日目には、多くの負傷者が運ばれていた己斐国民学校、古田国民学校、草津国民学校を捜してまわりました。死体を焼く臭い、やけどして傷口にウジがわいている人の臭いがひどかったです。私は臭いが我慢できず外で待ち、母が救護所の中に入って捜しました。一週間くらい市内をずっと捜しましたが、父はとうとう行方不明のままです。
兄弟姉妹については、兄と姉は広島鉄道局に勤めており、兄は海田市駅、姉は広島駅にいて、助かりました。私の下の弟二人も集団疎開で比婆郡(現在の庄原市)に行っていたため、無事でした。下から三番目の妹は観音国民学校一年生で、三日目か四日目に、観音国民学校の教頭先生が生徒を七、八人連れて逃げたと聞き、教頭先生の家がある己斐に行って、そこでようやく妹を見つけることができました。
家族を捜している時のことで、八日か九日だったと思います。天満町の電停のところで兵隊さんがたくさんの遺体を火葬しているのを見ました。遺体を集めるのに、トビ口という道具を使っているのですが、まるで材木でも扱うようにトビ口のかぎの部分に遺体を引っかけて、火の方へ寄せたりしているのです。「なんて惨いことをするなあ」と思いました。
●被爆後の生活
山県郡筒賀村(現在の山県郡安芸太田町)にいた叔父を頼って、私、母、三人の妹の五人で世話になりました。十月頃になって、下痢をする日が続きました。それ以前から、体に赤い斑点が出ており、髪の毛もだいぶ抜けていましたが、下痢のため体が骨と皮だけのようになってしまいました。私が叔父の家の二階から栗拾いをしている子どもたちを見ていると、その子どもたちに「あの人は明日死んでしまうだろうね」と言われました。
薬もなくどうしようもなかったのですが、何とか下痢がおさまり、十一月末に体調が戻りました。妹たちを叔父に預け、母と一緒に焼け跡にバラックを建てるために広島に帰りました。叔母の家が牛田にあって焼けずに残っており、そこで古い材木をもらって大八車に載せて運びました。
近所に缶詰工場があり、焼け跡を掘り起こすと下の方に無事に残っていた牛肉の缶詰があったので、それを食べていました。
戦後、昭和二十一年の一月初めから、大工の棟梁に住み込みで弟子入りしました。棟梁として一人前になったのは三十歳前後だったでしょうか。建てた家は百四十軒ほどになります。
結婚は昭和三十七年にしました。男児二人に恵まれ、今は二人とも独立して東京に住んでいます。被爆二世ということでつらい思いをすることがあったようです。
私は心臓を悪くし、また、胃がんと膀胱がんの手術を受けてから六年になります。原爆投下直後の火災の時に息苦しくて喉に何かつまったような感じで咳き込んだのですが、それから食事をしても水を飲んでも咳き込んで止まらず、痛みが出ることがよくあります。いまだに原因はわかりません。また、頭痛もするのですが、その原因もわからないままです。
「被爆者健康手帳を持っているから良いね」と言われるのはつらいです。確かに医療費の自己負担はなくなり、健康管理手当などの支給を受けることができますが、好きで原爆に遭ったわけではありません。
●伝えたいこと
八月六日のことを思い出すと、涙が出ることがあります。年を取ったからでしょうか、天満川に浸かっていた場所を通る時、よくこんな所に入って避難していたものだと思います。
原爆のことを皆さんにもっと理解して欲しいと思います。今回、体験を語る決心をしたのは、死ぬ前に、今、話しておこうと思ったからです。火災に追われて天満川の土手まで来て、火が迫ってくるのに逃げる場所がない、川に下りようにも下りる場所もなく、川に落ちて亡くなった人がいたことを伝えなければいけないと思ったからです。やけどを負って、大けがをして、火災から逃げることができず亡くなった人は、どれだけ熱かっただろうか。八月六日のたった一日で多くの人が焼け死んだのです。思い出したくないけど頭から離れないのです。もう二、三年くらい前から話さなければいけないと思って、体験記を残しました。
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