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被爆の記憶「もみじの手」 
松井 美津江(まつい みつえ) 
性別 女性  被爆時年齢 3歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2008年 
被爆場所 広島市大手町八丁目[現:広島市中区] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
執筆者の松井美津江さん
執筆者の松井美津江さん

●被爆前の生活
私は当時三歳十一か月で、花岡家の七人きょうだいの末っ子でした。家は万代橋を渡ってすぐの大手町八丁目で、爆心地から九百メートルの場所にあり、今でいうと広島市立大手町商業高等学校のそばになります。父は軍人で、外地にいました。長女は結婚して安芸郡の音戸の方へ行き、長男の保男と次男の俊男は、軍人ではないのですが、軍関係の仕事をしていたと思います。

私の家は軍需関係の商売をしていました。父が不在なので、母が従業員たちと一緒に働いていました。商品は軍の関係へ販売していたので、当時あまり手に入らないものでもあったようです。

家の近くには、南方留学生の寮があり、そこには広島の学校(現在の広島大学)に通学しているフィリピンなどからの留学生がいました。当時の南方留学生といえば、格式のある家のお坊ちゃんばかりだったようです。しかしだんだん戦局が悪化すると、寮にもあまり食べるものがないので、母が一週間に一回は必ず留学生を招待して、「いっぱい食べなさい」と言って、ごちそうしていたみたいです。
 
●八月六日のこと
あの日の朝、私は家にいました。たぶん朝ご飯は食べていたと思います。寝間着のままでぐずって母のそばでごろごろしていると、お友達が三人「遊びましょ」と誘いに来てくれました。私はまだ目が覚めきっていなかったのか、最初は「いやだ」と言ったのですが、母にモスリンで作った秋物の新しい着物を着せてあげるからみんなと遊びなさいと言われ、機嫌を直したのでしょう、友達と遊ぶことにしました。その着物はブルーの地に桜か桃の花が咲いているようなきれいな着物でした。

みんなでおままごとをしようということになりました。家の裏には小路があり、両側にずっと家が続いていました。母がそこにござを敷いてくれたので、私はそこへ座って、何かを切っていたと思います。三人の友達はそれぞれ、私たちも何か取ってくるからと言って散らばって行きました。

それからすぐだったと思います。ドーンというすごい音がして、真っ暗になりました。何が起きたのだろうかと思いました。今でも、あのときの恐怖を思い出すと身体が震えてきます。どれくらい時間がたったのかわかりませんが、ずっと向こうに明かりが見え、それに向かって歩いて行くと外に出ることができました。たぶん小路の両側の家が両方とも小路側に倒れ、支えあってトンネルのような形になっていたため、私は下敷きにならずに抜けられたのだと思います。

原爆の光は、ちょうど私の後ろから来たのであまり感じませんでしたが、首の後ろと手の甲をやけどしていました。手のやけどは、小学校の頃にはもううっすらと残っているくらいでしたが、首の後ろのやけどは高等学校の頃でも残っていました。やけどとしては軽症だったのだろうと思いますが、散髪をして髪を短くしたときには、「ああ、まだわかるねえ」と母が言っていたのを思い出します。

トンネルを抜け出ると、ちょうどそこに赤ちゃんをおんぶした近所の奥さんがおられました。その方は、裏の小路にあったキリスト教の教会の奥さんでした。奥さんに「あら、一人なの」と聞かれたので、「うん、一人」と答えたとき、向こうで「美津江、美津江」と母が呼んでいることに気がつきました。奥さんと一緒に母の呼ぶ方へ行くと、母は完全に家の下敷きになっていました。奥さんは、壊れた建物を動かそうとしてくださいましたが、赤ちゃんをおんぶされているし、女性ですからどうにもなりませんでした。そして奥さんは、自分と私だけでもと思われたのか、私と手をつないで、その場から歩き出しました。

周りの家は全部倒れ、水道管があちこちで破裂し、粉塵が立ち込めていました。途中で私が「おばちゃん、目が見えなくなった」と言うと奥さんは、水道管の破裂しているところへ私を連れて行き、着ていたブラウスの片そでをピッと破いて、その布で私の目を何回も拭いてくださいました。私が「見えるようになった」と言うと、「よかったあ」と言われ、それからまた手をつないで市役所へ向かいました。市役所の建物が残っているから、そこへ行こうと思われたのだと思います。その途中、腰から下が建物の下敷きになった白髪のおばあさんが「助けてください、助けてください」と言っておられました。奥さんはその方を助けようとされましたが、もうどうにもならなかったようで「ごめんなさい、私ではとても」と言って、「すみません」と手を合わされたのを覚えています。

電車通りに出ると、大きな馬が死んでいたのを覚えています。電線がぶら下がっていて、大人だったらまたぐことができるくらいの高さに下がっているのですが、三歳の私にはまたぐことができません。その電線の下は、線路も敷石もすごく熱くなっていました。どうしようかと思っていると、奥さんは電線の向こうで待っていらっしゃいました。今考えると、奥さんは子どもをおんぶしているから、私を抱き上げることができなかったのではないかと思います。私は子ども心に、早く決断しないとこのおばちゃんに置いていかれるという思いがありました。そして、またぐことができないのだから仕方がないと思い、電線の下をくぐりました。そのときの熱かったことは、今でもよく覚えています。

市役所は、もう上のほうは焼けていましたが、地下がまだ焼けずに残っていたので、市役所に来た人は、どんどん地下に逃げていました。地下に降りる最後の階段のところで、奥さんは私に、ここに座っているように言われました。たぶん母も、あそこから何とか逃げ出したらここへ来るだろうから、自分は地下の中を見てみると言われ、私は一人で階段に座りました。
 
●母との再会
母は、ご近所の夫婦で洋服の仕立てをされていた白木さんという方に助けられ、その方に市役所に連れて来てもらっていました。母が「美津江、美津江」と言うものですから、白木さんは、自分がもう一度家の辺りまで行ってみてあげるからと、母を市役所の地下の階段へ座らせたそうです。

そこへご夫婦で通りかかられた内科医の先生に、「花岡の奥さんはいいですね、お嬢ちゃんと一緒で、うちは娘とはぐれてしまいました」と言われ、母は「先生、うちも娘とはぐれて、いま白木さんが捜しに行ってくださっているから、ここで待っているんですよ」と答えたそうです。「でも隣に座っていらっしゃるのは、お宅のお嬢ちゃんじゃないんですか」と言われて、母ははじめて隣の私の方を見て、そこでやっと娘だと気づきました。私と母は、偶然同じ階段の隣同士に並んで座っていたのですが、私は着ていたものは焼け、髪は皆ちりちりで顔は真っ黒になっていたのでわからなかったのです。

それからすぐに、兵隊さんが「地下にも火が回って来たので、歩ける人は外へ出てください」と言われました。そのとき先生が、母が何も履物を履いていないことに気づかれました。元気な人はどんどん外へ出ています。外に出ようとせず寝ている人に、履物をいただいてもよろしいですかと母がたずねると、その人は「まだ脱がさないでください」と言われました。母は謝り、先生がその人の三人くらい先の、亡くなっている方の履物をもらってくださいました。外に出てからは、先生たちや白木さんがどうされたのか、私は覚えていません。

市役所の裏にはひょうたん池という池がありました。周囲は火災が激しく、炎と熱を避けて人はどんどんこの池に入って行きました。火の粉が飛んでくるので、池の真ん中の細い橋の下は人でいっぱいでした。母は、子どもの私だけでも橋の下に入れてくださいとお願いしましたが、皆自分のことしか考えられないのでしょう、入れてもらえませんでした。そのため、母は橋の一番近くに私を入れ、自分はその外側へ向かい合うように入りました。そのとき、たくさん舞い上がっていたトタン板が落ちてきて母の頭を切り、ひどく出血しました。通りかかった兵隊さんが、落ちてくる火の粉を消さなければ池が火の海になると言われましたが、母は頭の傷を手で押さえていて消すことができません。私は母に「自分たちの周りに飛んでくる火の粉だけは消してえね」と言われ、一生懸命、落ちてくる火の粉を素手で叩いて消しました。私はそれがそんなに熱かったという記憶はありませんが、母にとっては、まだ幼子の私が、もみじのような小さな手で二人の周りの火の粉を消しているということが、とてもつらかったようです。そのときのことは、母の原爆の記憶の中で最もつらかったことのようで、いつも泣きながら話していました。

橋の下に入ることができなかったのが幸いして、その橋をちょうど通りかかった兵隊さんが、けがをしている母に気づき、池から上がってきなさいと言われました。けがをしているのは皆さん同じだけれど、母はけがをしながらも元気そうなのでそう言われたのだと思います。その兵隊さんは、すぐに部下の方を二、三名連れてきて、母と私を一緒に乗せ、担架で赤十字病院まで連れて行ってくださいました。

赤十字病院は、入り口から玄関の間に庭のような植え込みがあり、車が出入りできるようになっていました。私たちが担架から下ろされたとき、そこはもうわずかな通路を残して、けがをしたりやけどをしたりした人でいっぱいで、皆寝ていました。夕方、兵隊さんがやかんと湯呑みを持って、皆さんに水を配っていました。やっと私の順番が来ましたが、兵隊さんはほかの方には並々と水を注がれるのに、私には湯呑みに少ししか注いでくださいませんでした。水を欲しがる私に母は、自分の水を少しだけ飲み、残りを私に飲ませてくれました。このときの水のことは、とてもよく覚えています。後で思うと、その水は決してきれいな水ではなく、その兵隊さんは、到底助からないと思う人には十分に飲ませてあげて、私のように割と元気で助かるのではないかと思う人には、少なめにくださったのではないかと思います。翌日の八月七日の朝には、周りの方はほとんど亡くなっていて、生きているのは私と母くらいでした。

母は出血が多かったので弱っていたのでしょう、立つことができず座っていました。私は兄たちが捜しに来るかもしれないので、母の代わりに通る人を見ていましたが、兄たちのことが頭から消えてしまっていて、どんな顔だったか覚えていませんでした。母に言われるように、入り口と通路の方をただ見ていました。そのうちに母が、知り合いの赤十字病院の婦長さんを見つけ、私に、「大きな声で婦長さんと呼びなさい」と言いました。私は一生懸命に婦長さんを呼び、母はもう声が出ないので、手を振っていました。声が届いたのか、婦長さんは私たちに気づかれて、私たちは建物の裏に張られたテントへ運ばれ、婦長さんに手当てをしていただきました。母の着ていた着物は血だらけだったので、病院にあったきれいな男物の夏物の服に着替えさせてもらいました。そしてどこへ帰りたいのかと聞かれ、母は「庄原の実家に帰りたいが、途中安芸郡の府中へ寄って預けてあるものを受け取ってから庄原へ帰りたい」と言いましたので、婦長さんは、大きなトラックを手配してくださいました。

荷物を預けていたのは、近所の方の親戚の家でした。まず府中へ荷物を受け取りに行きましたが、そこでは「そんなものは預かっていない」と言われ、母がどんなに言っても、何一つもらうことができませんでした。大切なものもかなりあったと思いますが、大きなトラックは空のままで、八月七日の夜に庄原まで帰りました。母はすごく残念だっただろうと思います。
 
●兄のこと
長男は大手町の自宅へ私と母を捜しに行き、次男は、三男の静男を捜しに行きました。三男は学徒動員で土橋の方へ出ていると聞いていたので、次男は土橋の方へ行き、近くにいた人からこのあたりで作業していた人は、己斐国民学校の方へ逃げていったと聞いてそちらへ行きました。己斐国民学校へ向かう坂道を上がっていくと、道の両側には被爆した人がたくさんおり、その中に、腕の皮膚が垂れ下がり、顔が倍くらいに腫れ上がって誰だかわからなくなっている男の子がいました。当時は皆胸に名札をつけていましたが、それが読めないくらいに焼け、ひどいやけどをしているのに大きな声で「どなたか助けてください!」と言っていました。次男はその子を見て、ちょうど静男くらいの子だ、すごいやけどをしているのにこの子は元気がいいなと思ったそうです。己斐国民学校へ行き、三男を捜しましたが見つからず、ここにはいないのかと思い坂道を下りてくると、まだその子が助けを呼んでいます。次男は先へ行きかけましたが、その子があまりにも哀れなので引き返し、学校と名前を尋ねると、その子は「花岡静男です」と言ったので、次男は焼けた学生服を脱がせて、シャツにつけてあった名札を見ると、それはかすかに読むことができ、「花岡静男」と書いてありました。「お前、静男か。俊男兄ちゃんだ」と言うと、三男は「ああ、お兄ちゃん」と言って、抱いてもらおうとして両手を広げるのですが、やけどがひどく、どうやって抱いてやればいいのかわからなかったそうです。

次男は、三男を救護所になっていた五日市国民学校へ連れて行きました。そこも被爆した方でいっぱいでしたが、たまたま兄たちの隣に寝ていた人のところへは、色々な人がお見舞いにキュウリやトマトを持って来られていました。三男は顔が腫れていて目は見えないのですが、においでトマトだということがわかり、次男に「トマトが食べたい」と言い出したそうです。次男ははじめ、我慢しろと言っていましたが、だんだん弱っていく三男が、繰り返しトマトが食べたいというので、隣の人に一つわけてもらえないかと頼みましたが、断られてしまいました。それでも三男が食べたいというので次男も困り、「そんなにわがままを言うならもう面倒を見られない」と言うと、三男は「わがまま言わないから、僕のそばにいて」と言ったそうです。

三男は、その日の夜中に亡くなり、次男が荼毘に付して、お骨を首から掛けて庄原へ帰ってきました。三男は八月六日の朝、出かけるとき母に、「連日炎天下での建物疎開作業で疲れたので休みたい」と言ったのですが、母は「日本男児がそんな弱音を言ってどうする」と言ったそうです。それで三男は「冷蔵庫の桃を一個食べさせて欲しい、食べたら行ってくる」と言ったので、母は玄関で桃を食べさせました。三男は「おいしかった。これで元気が出たから、今日も行ってきます」と言って出かけて行きましたが、それが母と三男の別れになりました。ですから我が家では、毎年八月六日から三男が亡くなった八月十一日までは、仏壇にトマトと桃を供えています。
 
●庄原での生活
母の実家は、比婆郡山内西村大字尾引、いまの庄原市尾引町にあり、母の姉である伯母が継いでいました。母はそれまでは気が張っていたのでしょう、着くとすぐに寝込んでしまいました。

私も母も髪が抜け丸坊主になり、母は歯が揺らぎだして、奥歯が皆抜け、その抜けた穴から膿血が出て、それがとても臭かったのを覚えています。母は弱って、寝たきりになりました。私は足の付け根から下に、大小のできものや腫れ物ができましたが、当時は薬もなく、薬草のようなものをはることくらいしかできません。それが化膿し、やはり母と同じ様な悪臭を伴う膿血が出ました。その痛みと、寝たきりの母に甘えられない悲しさとで泣く私を、伯母は三日三晩ずっとおんぶしてくれました。伯母は農作業や自分の家のこともあったのに、母の看護や、私の面倒を見てくれました。それはとても大変なことだっただろうと、自分が大人になった今になって思います。伯母には、いくら感謝しても感謝し切れません。

母のところには、お医者さんが診察に来て、栄養剤を注射してくださっていました。次男がその先生に、「たぶん母も妹も原爆で悪いガスを吸っているから臭い膿血が出るのだろう、きれいな血を輸血したらどうか」と言ったところ、お医者さんも「それはいいかもしれない」と言われ、その話が広まり、毎日血を使ってくださいという村の人が行列を作るくらい来てくださいました。その中で母や私に合う血液型の人から血液をいただきました。助かるんだったら自分たちの血をいくらでも使ってくださいと言って来てくださって、本当にありがたかったです。

私はおてんばだったので、足の腫れ物が治ってくると、お友達と鬼ごっこをしました。しかし、見た目は元気そうに見えても、弱っていたのでしょう。三メートルくらい走るとすぐに走れなくなり、ばたんと倒れてしまっていました。伯母と母は私に「走ったらだめよ」と常に言っていました。
 
●広島での生活
昭和二十一、二年頃、父が戦地から庄原へ帰ってきました。それからしばらくは家族で庄原にいましたが、私が小学校一年生の二学期に元の広島市大手町に家を建て、広島へ戻りました。広島に出てきて苦労したことは、米が運べなくなっていたことです。米を持って汽車に乗ると没収されるので、兄たちが自転車で庄原まで行っていました。米を持って帰るのは夜にしていましたが、夜でも時々とめられて没収されることがあったようです。庄原にいたときよりも、米が十分になかったということを覚えています。

原爆に遭っているということで差別もありました。ABCC(原爆傷害調査委員会)が学校へ、検査に来てくれと言って迎えに来るのです。そうすると「あいつ原爆に遭っているんだ」と皆に言われて、それがすごく嫌でした。ABCCへ行くと、検査をした帰りにチョコレートをくれました。小学生ですからそれがうれしくて、行くことは別につらくはなかったのですが、帰ってくると色々言われることがありました。ABCCには何度か行きましたが、母が断ってくれて行かなくなりました。
 
●被爆の後障害
私は五十五歳のとき、白血病になり原爆症と診断されました。母も白血病で亡くなっています。これまで四十一歳で子宮筋腫になり、五十一歳で首のリンパ節に腫瘍ができ、五十二歳で糖尿病と診断されました。六十三歳のときには原因不明の菌が体内に入り高熱が出て、白血球も減り、生死の境をさまよいました。そのときは副作用のおそれがあったのですが薬を注射して、それで熱を徐々にですが下げることができました。しかし胃に痛みを感じたので、退院の三日前に胃カメラを飲んで調べたところ、すい臓がんだということがわかり手術して切ることを勧められました。体力が落ち弱っているので、手術に耐えられないかもしれないということでしたが、手術をしなければ一年から一年半の命と言われ、娘が結婚するときには母親がいてやりたいという気持ちもあって、一か八か手術を受けました。手術は成功しましたが、術後強い痛みが続き、それは手術を受けたことを後悔するほどのものでした。

このほかにも、疲れたり無理をすると、めまいと吐き気を伴うメニエール病や、かゆみと痛みを伴うヘルペスが出たりします。色々な病気をし、本当のところ、胸の奥が晴れることはありません。いつも次にどんな病気が来るのかという恐怖があります。しかし、私を常に気遣ってくれる家族に心配ばかりかけてもいけないので、気持ちを明るい方に持っていくようにしています。自分を偽るわけではありませんが、暗く暮らしても明るく暮らしても同じ人生ですから、少しでも明るく過ごしたいと思います。
 
●平和への思い
戦争は絶対にしてはいけません!

戦争では、戦地に行っている男性も犠牲になりますが、家にいる女性や子どもも犠牲になります。一番弱い者に、しわ寄せが来るのではないでしょうか。戦争に対してはそういう憤りがあります。今の日本の状況を見ると、戦争で犠牲になった多くの人たちや私の父や母、兄たちが一生懸命日本のためと思ってやってきて、今の日本があるのに、それを全部壊してしまうのではないかと思います。

もう一つ、「国旗掲揚」反対ということが言われていますが、「国旗」を反対するとき、ただ戦時中に使われていた旗だから使ってはいけないというのなら、それは本当の戦争を知らない人が言っているのだと思います。本当に戦争で犠牲になっている者にとっては、その「国旗」こそ大切にしてほしいのだと思います。それが礎となって今の日本があるのですから、代案もなく、ただ反対するというのでは私は納得できません。

八月六日のあの日が来るたびに胸が苦しくなり、それは年を重ねるごとに強くなりました。今この体験を残しておかなければと、強く思います。

 

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