●被爆前の生活
私は昭和十三年、父・長瀧年正、母・タケノの一人娘として生まれました。父は鉄道局に勤めており、工事現場の写真を撮る仕事をしていました。とても私をかわいがっており、写真もよく撮ってくれたそうです。しかし昭和十五年、山口県下関市で仕事中の事故により亡くなりました。父は、撮影した私の写真を祖父母や親戚にも送っていたので、その写真の一枚が私の手に戻り、大切な宝物になりました。父が書いたその写真の裏の「清子」という文字を見る度に、父の私への愛情が感じられ今でも幸せな気持ちになります。
父の死後、母は故郷の広島に私を連れて戻りました。叔父が横川町二丁目で営んでいた材木屋を戦局の悪化によりたたんでしまい、ちょうど空き家でしたので、そこに移り住みました。二階建ての家で、私たち母娘で住むには広すぎるくらいでした。母は生命保険会社で集金の仕事をして、私を育ててくれました。私と母の二人だけの生活でしたが、近くの安佐郡深川村(現在の広島市安佐北区)に祖父母や親戚も住んでおり、時々様子を見に来てくれていたので、寂しいと思うこともなく過ごすことが出来ました。日頃から母は私に、自宅の住所の他に、祖父母宅の住所も覚えさせていました。母一人子一人でしたので、母は自分に何かあった時のことを心配していたのでしょう。ただ住所は、むやみに他人には言ってはいけないとの忠告も受けていました。幼いながらも祖父母宅の住所を覚えていたことが、その後の私の助けになるとは、その時は思いもしませんでした。
そして昭和二十年四月に、私は三篠国民学校に入学しました。
さくらの花が満開でした。一年キイ組でした。
●八月六日の様子
八月六日は、朝からとても良い天気でした。その日母は、近所の人と土橋へ勤労奉仕作業に行くことになっていました。朝七時、「お母さん、いってらっしゃい。さようなら」と言って笑顔で見送る私に、母はにっこり笑いかけて出かけて行きました。これが母の顔を見た最後でした。
母を見送った私は、いつものように分散教室に行きました。当時、国民学校は学童疎開しない低学年向けに、学区内の寺院や集会所などに分散して授業を続けていました。私が通っていた分散教室は、一階が呉服店でそこの二階を使用していました。
しかしその日は、先生が腹痛を起こし、「おなかが痛いので、今日は帰ってね。お昼までは家から外に出ないでね」と私たちに言い、授業は中止になりました。それで私は、横川町二丁目の友達の家に寄って、友達と一緒に遊ぶことにしました。暑い日でしたので、二人とも上半身裸で、モンペは膝までたくしあげて遊んでいました。
すると突如「ピカッ」とカメラのフラッシュのようなものすごい閃光が目に入り、「ドーン」という大きな音がしました。慌てて部屋を飛び出したのと同時に天井が崩れ落ちてきたので、私たちはとっさに近くにあった机の下に転がり込みました。
私たち二人は家の下敷きになることもなく、崩れた家の中にできた隙間を通って進んでいくと、「ポン」という感じで家の外に出ました。その時に足をすりむき、頭を打ちましたが、命に別状はありませんでした。先ほどまで私たちが遊んでいた家は潰れ、その家にいたはずの友達のお母さんの姿は、どこにも見えませんでした。私たちは何が起きたのかわからず「お母さん、お母さん」と泣き叫びました。向かい側にある私の家は倒壊を免れていたので、私は泣きながら家に向かいました。近所の人に「危ないから入るな。早く逃げろ」と注意されましたが、必死で家の中に入ろうとしました。家には母が大切にしている生命保険証書などがあり、万が一の時はそれを持って逃げるよう言われていたのを思い出していたのかもしれません。私は制止を振り切って家に入ろうとしましたが、子どもの力ではどうすることもできず、半ば強引に手を引かれその場を離れました。後に近所の人に聞くと、その時私はどうしても家に入ろうとし、いくら連れて逃げようとしてもその場を離れようとしなかったそうです。その後、横川町二丁目付近は火災が発生しました。
●避難先での様子
私たちは方角も分からないまま、人波にのまれながら大人の人について逃げ続けました。周りは家屋が倒壊し、その中に閉じ込められた人たちの助けを求める声、体中血まみれの人、手がない人、目玉が飛び出している人、まさに広島は一瞬のうちに生き地獄と化していました。私はただただ怖くて仕方がありませんでした。
随分長い時間、逃げ回っていたように思えます。ようやく着いた場所は、見慣れない神社でした。一緒に逃げてきた友達の顔を見ると、煤で真っ黒、別人のようでした。私も同じような様相をしていたに違いありません。口の中にまで入った煤で気持ち悪く、足もけがをしていました。そこに追い打ちをかけるように黒い雨が降ってきたので、近くの防空壕に移動しました。防空壕の中も負傷者でいっぱいで、既に息絶えている者も多くいました。国民学校一年生の私たちは、防空壕の中で恐怖と雨にぬれた寒さに震え、泣くばかりでした。そんな私たちの様子を気の毒に思ってくれたのでしょうか、見知らぬ母娘が「泣かないのよ。大丈夫、大丈夫」と優しく声を掛けてくれ、自分たちの荷物から肌着を出し、私たちに着せてくれました。あのような状況下では、自分のことや家族のことだけで精一杯で、他人を思いやれる人は少ないでしょう。この親切な母娘の名前を聞いておけば良かったと後悔しましたが、何の手がかりもありませんでした。その後、その母娘にどんな形でも良いからお礼が言いたくて、何度か新聞に投稿しようかと思いましたが、どう気持ちを文章で伝えたらよいのか思案するばかりで、勇気もなく何も伝えることができないまま今日に至ってしまいました。現在でも、本当にあの母娘には感謝の気持ちでいっぱいです。
しばらくして、避難場所を移動するため、大人の人に三滝山にある三滝寺へ連れて行かれました。三滝寺に行く途中の道で、炊き出しを行っていました。口の中が汚れて気持ち悪く、水だけは飲んでいましたが、炊き出しのおむすびを食べたかどうか、今となっては思い出せません。
三滝寺に着くと、そこも負傷者や死体であふれ、お堂では皆むしろの上に寝かされていました。あちこちから「痛いよ、痛いよう」と声が響いており、友達と二人ずっと泣いてばかりいました。周りの人からは「うるさい」と怒鳴られることもありました。夜になると三滝寺から、広島市内が赤々と燃えているのが見え、また涙があふれ出し止まりませんでした。不安で一晩中泣き続けました。六歳の少女だった私にとって、孤独で過酷すぎる夜でした。
七日、私は一人の兵隊さんに「乾パンをあげるから、水をくれ…」と悲痛な声で懇願されました。その兵隊さんは背中にひどいやけどを負い、自分では動くこともままならない様でした。当時、やけどをした人に水をあげてはいけないと言われていましたが、幼い私なら水をくれると思い頼んだのかもしれません。乾パンが欲しかったからなのか、それともその兵隊さんが余りにも苦しそうでかわいそうだったからなのか、今では記憶は定かではありませんが、私はその兵隊さんに水を飲ませてあげました。しかしその後、兵隊さんがどうなったのかは知りません。三滝寺では、その乾パンを食べて空腹をしのいでいました。
八日になっても、今まで起きた事態や母がいない不安で怖いという思いしかなく、その上避難先は知らない人たちばかりなので、不安な気持ちで押し潰されそうでした。大人たちからは、名前や住所や学年を聞かれましたが、母からむやみに自宅の住所などを他人に教えてはいけないと言われていたので、私は一切答えませんでした。そうしましたら、見知らぬ若い男の人が私と友達に声をかけてきました。煤で真っ黒に汚れた私たちの姿に同情してくれたのでしょうか、お風呂に入れてご飯を食べさせてあげるから自分の家に来るよう言ってくれました。とてもありがたい話でしたが、その時は怖くて「行かない。行かない」と言って泣くばかりでした。それでも何度も私たちに優しく声をかけてくれ、家へ来るよう誘ってくれました。私も一人だと不安ですが、友達も一緒だと心細くないと思い、その方の好意に甘えることにしました。その方のお宅は、三滝山の中腹にある新しくきれいな家でした。家では奥さんが待っておられ、私たちを温かく迎えてくれました。奥さんは私たちをお風呂に入れ体をきれいにしてくれ、食事をごちそうしてくれました。とても親切にしていただいたにもかかわらず、私はそのご夫婦にも名前や住所を話しませんでした。困ったご夫婦は、明日近くの派出所へ私たちを連れて行くと教えてくれました。その日は、ご夫婦のお宅に泊めていただくことになりました。私たちのように親と離れ離れになってしまった子どもは、その時たくさんいたのに、なぜ私たちに声をかけてくれたのか今でもわかりませんが、いくら感謝してもしきれません。後日、祖父母がその若夫婦の元へお礼に行ったそうです。
九日、私たちはご主人と一緒に安佐郡祇園町長束(現在の広島市安佐南区)の派出所に行くことになりました。ご主人は私たちを一人ずつ自転車に乗せて送ろうとしたのですが、私たちが一人になるのを嫌がり「絶対だめ」と泣くので、一人を自転車の荷台に乗せ、もう一人は歩かせて、途中で交替させながら派出所に向かいました。
派出所は救護所になり、炊き出しも行われていました。その中は、多くの人々でごった返し、子どもやまだ小さな赤ん坊さえいました。自分の赤ん坊を捜しに来た女性が、自分のお乳を他の赤ん坊に飲ませるということもありました。私たちは派出所でも名前も言わず、どこの誰かもわからないまま、そこでもう一晩過ごしました。警察官は「泣かないで、住所を言ってみろ」と言うので、「住所は言わない」と答えると、「それなら、親戚はいないか」と質問を変えました。そこで、母から覚えさせられていた祖父母宅の住所を伝えると、偶然にも応援で派出所に来ていた警察官が深川村の方で、すぐに連絡を取ってくれました。そこで、その警察官から祖父たちが既に捜しに来ていることを教えられました。
深川村の祖父母たちの元にも、広島市内で起きたことは伝わっていました。祖父は心配で家でじっと待っていることができず、捜索のために親戚の人たちと市内に向かいましたが、横川町まで入ることができなかったそうです。そこで、横川地区住民の避難場所として指定されていた沼田(現在の広島市安佐南区)に行ってみると、避難していた方から、勤労奉仕作業で土橋付近に行った者たちは誰一人帰って来ていないと言われたそうです。五日に祖父が母に、盆入りの七日までには里帰りするよう連絡を取った際、六日に土橋へ勤労奉仕作業に出かけなくてはいけないと言われたのを思い出し、母の死を覚悟したそうです。ただ、泣きながら家に入ろうとする私を見ていた人から「お孫さんは多分生きているよ」と聞き、とにかく孫の私だけでも見つけたい一心で救護所を捜していました。そして長束の派出所で、偶然、私を発見し、ようやく出会うことができました。そこに派出所から連絡を受けた親戚も自転車でやって来て、再会を喜びました。母が私に祖父母宅の住所を暗唱させてくれたおかげで、親戚に連絡が取れ、派出所で待っている間に祖父と出会うことができました。母のおかげだと感謝しています。しかし、祖父たちが「母はもうだめかもしれない」と話しているのを聞くと、私は会えた喜びを忘れ、六日からずっと一緒に行動を共にしてきた友達との別れもつらく、大泣きをしてしまいました。「横川の家に帰る。田舎には行かない」と言って聞きませんでした。しかし、しばらくして友達の元にも、被爆時、行方が分からなかったお母さんが友達を迎(むか)えに来たので、そこで別れました。
●戦後の生活(深川村での生活)
祖父と一緒に田舎の家に向かいました。私は母が心配で、何度も母の安否を尋ねましたが、返ってくる答えは「大丈夫。帰って来るよ、帰って来るよ」という言葉だけでした。私が余りに泣くので、心配させまいと気遣ってくれたのだと思います。それに祖父母も、自分の娘が生きていると信じたかったのでしょう。祖父母の家に着くと、まず膿の出た脛の傷の手当てをしてもらいました。当時、村には医師がいなかったので、自宅で治療するしかありません。祖母が焼酎に漬けたハミ(マムシ)の皮をはがしたものを傷口に貼ってくれましたが、私は「蛇になるから嫌だ」と言い、祖母を困らせました。また顔にできたでき物も、ドクダミを使って消毒してくれましたが、かぶれてしまい反対にひどくなってしまうこともありました。脛には、今でも傷痕が残っています。
私が祖父母に引き取られてからも、祖父は何度も市内に母を捜しに行きましたが結局見つからず、雪が降る寒い日に、母のお葬式をあげました。母のお葬式を出した後も、似島で母に似た人を見かけたという情報を聞き、祖母が訪ねて行きましたが、全くの別人でがっかりして戻って来たこともありました。結局、母は遺骨さえ見つかりませんでしたが、生前母が勤めていた会社から、母の遺骨だと渡された足の一部だけの遺骨があります。当時社内にいた職員の遺骨が見つかり、本社が持っていた社員名簿に母の名前が載っていたので渡されたそうです。当然、その日勤労奉仕作業に出掛けていた母の遺骨ではありませんが、渡す遺族がいない遺骨がたくさんあるので受け取ってほしいと頼まれ、断りきれなかったようです。最近、お墓を建て直した時に、受け取った遺骨を原爆供養塔に納めようかと思いましたが、その方の遺骨は、遺骨のない母の代わりに今も大切に供養しています。
祖父母は私の他に、戦死した母の兄の子三人も引き取って育ててくれました。私は九月から地元の小学校に通い始めました。戦後は通貨の価値もなくなり、食べる物もなくつらい思いもたくさんしましたが、皆必死で生きていました。子どものころは、親きょうだいがいないということで寂しい思いをしました。よく夜泣きをしては、祖母を困らせていました。ある晩、私が「幽霊が出る」と言って泣くので、祖母は「幽霊でもいいから、お母さんに出て来てくれるように頼んでごらんなさい」と私を励ましてくれたので必死で願いましたが、一度も出て来てはくれませんでした。しかし、祖父母の明るく強い心に助けられ、まっすぐに生きていくことができました。
大きくなるにつれて、子どもの中でも一番年上である私が祖父母の助けをするようになってきました。まだ幼いいとこを背負って、学校に通っていました。一番下のいとこは、親の顔さえ覚えていません。私には、親にかわいがってもらったという記憶がありますが、この子にはその記憶もないと思うとかわいそうでなりません。本当に戦争さえなければ、皆楽しく過ごせたはずなのにと思わずにはいられませんでした。今ではいとことは、きょうだい以上の強い絆で結ばれています。私が二十歳になるまで父の遺族年金が支給されたので随分助かりましたが、祖父母にとって負担は重かったと思います。私は地元の中学校を卒業した後、祖父母にこれ以上苦労はかけられないと思い、広島市内へ働きに出る決心をしました。
●戦後の生活(広島市内での生活)
広島市内で生活を始めた私は、京橋町にあった理容室で働きながら理容学校に通い、理容師の免許を習得しました。お店のご主人が被爆者で、被爆者健康手帳の申請手続を代わりにするよう頼まれたので、その時私も一緒に申請しました。本当は結婚前でしたので、被爆者だと分かると結婚に差し支えがあると感じていましたが、ご主人の勧めもあり取得しました。
働き始めてしばらくして、祖父母には内緒で以前住んでいた家に行ってみましたが、跡形もありませんでした。当時通っていた小学校にも行き学籍名簿を見ると、私は死んだことになっていました。その時初めて私が死亡したことになっていると知りましたが、被爆後の混乱の中、学校が児童の安否を確認することも難しかったのだと思います。
その後二十二歳の時に、お見合いで四つ年上の松尾隆如と結婚しました。主人も被爆者でしたが、お互いその事は隠していました。後で聞いた話では、当時主人は国民学校五年生で学童疎開中でしたが、海軍の兄の一時帰宅に合わせ、宇品町の自宅に帰って来ていたそうです。主人は六日に疎開先に戻る予定でしたが、前日に母が首のリンパ腺が腫れたので手術を受け、熱の出た母の付添いで自宅にいて、そこで被爆したそうです。母の代わりに勤労奉仕作業に出た兄は亡くなり、母はずっとその事を後悔していたそうです。私は母親を亡くしましたが、子どもを失うという悲しみは想像できません。自分の娘や息子を失った祖父母が、その悲しみの大きさを話してはくれましたが、子を亡くした親にしか分からない苦しみがあったのでしょう。
結婚後は、主人と二人三脚で理容室を営んできました。二十四歳で長女を、二十九歳の時に次女を出産しました。長女を出産する時は、腎臓が腫れあがり体調を崩したので入院しました。これは原爆の影響ではないか、そして子どもにも影響が出るのではないかと、生まれてくるまでとても不安な日々でした。その時は、まだ主人にも自分が被爆者であることを話していなかったので、不安な気持ちを打ち明けることもできず、つらい思いをしました。どうか五体満足で元気な子どもでありますようにと、いつも祈っていました。出産時には、大量出血したことが原因で生死の境をさ迷いましたが、輸血をして何とか一命を取り留めました。幸い子どもは二人とも元気に生まれ、本当に安心しました。その後も健康はなかなか優れず、大腸がんや心臓病などで五回も手術を受け、現在でも病院には定期的に通っています。
病気と闘いながらも、仕事は続けてきました。偶然お客様の中に、原爆に遭った時に行動を共にしていた友達の兄と知り合いだという方が来られたことがありました。その後友達は元気にしていると聞き、とても会いたくなり、そのお客様に連絡を頼みましたが、友達からの連絡はありませんでした。派出所で別れたきり、彼女とは会うことができないままです。
●平和への思い
雨が降っても風が吹いても毎年欠かさず八月六日の早朝には、平和記念公園にお参りに来ていますが、被爆については今まで多くを語らないできました。娘が中学生になった時、中学校の先生から私に原爆の話をしてほしいと頼まれましたが、思い出すのもつらいので断りました。悲惨な光景、助けを求める声が今も脳裏に焼き付いています。
新聞やテレビを見ると、今でも毎日のように世界中で戦争が繰り返されています。相手が攻めて来たから攻め返す、戦争とはその繰り返しです。どんな理由をつけても、戦争は行ってはいけませんし、核兵器も使用してはいけません。どちらが善でどちらが悪かではありません。以前テレビで誰かが「日本も戦争をしようと思えば、どこの国にも負けない」と言っていましたが、そんなことは言ってはいけないのです。いつも犠牲になるのは、子どもなどの弱者なのです。人はどんな時も、助け合って生きています。核のない平和な世界になるように、私も努力をしていかなければならないと思います。私はもうすぐ七十歳になり、数えてみれば三十五歳で亡くなった母の倍の年を生きていることになります。今日の私があるのは、多くの人の助けと支えがあったからです。生かされている命を、平和のため人のために役立てたいと考えています。それにはまず、家の中が幸せでなければ、平和も成り立たないと思います。これからも夫と協力しながら、一歩ずつ確実に平和な世界を築いて行きたいと思います。 |