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己斐から仁保へ~必死にたどった家路~ 
山崎 小夜子(やまさき さよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2014年 
被爆場所 広島市己斐町[現:広島市西区] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 広島陸軍被服支廠 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活について
私の家族は父・山﨑留一、母・山﨑浪子、私の三人です。父は海軍で呉にいたため、母と二人で広島市仁保町渕崎の家で暮らしていました。被爆時は十六歳でした。戦時中は、とにかく貧しかったので苦労しました。農業をしていなかったので、食べるものもありませんでした。近所の畑を持っている人からイモやカボチャを分けてもらったり、船で島まで食べ物を買いに行ったりしました。また、海岸が近かったので、貝掘りをしてそれを食べていました。

学校は、仁保国民学校高等科に通いました。戦時中であっても、学校生活は楽しいものでした。卒業後は、広島陸軍被服支廠に入り、己斐駅から庚午方面に十分ほど歩いたところにある工場で働いていました。軍人さんの靴をつくっている工場で、私は、型を取って革を切り出す仕事をしていました。お昼ごはんは被服支廠で出るのですが、細長い外米や、麦ばかりでした。これがおいしくないのです。しかし、食べたくなくてもそれを食べなければおなかがすくので、仕方なく食べていました。

当時は現在のようにバスがなかったので、仁保町の自宅から的場町の電停まで歩き、的場町から己斐まで路面電車で通いました。戦時中は物資が少なく、私は靴を持っていなかったので、下駄で通っていました。仕事が始まる八時半に間に合わせるために、朝の六時には家を出なければなりませんでした。自宅の周りにはレンコン畑がたくさんあったのですが、その中をもんぺをはき下駄でひたすら歩いて通いました。
 
●八月六日
八月六日のその日も、いつもと同じように朝六時に家を出て、的場町の電停まで歩いて、路面電車に乗り、己斐の工場に出勤しました。

工場に着いて、作業をしているときでした。窓からB29が飛んでいるのが見えました。「あそこを通りよるよ」などと言っていると、ピカッと光りました。「ばかだね。昼に照明弾落として」と言うや否や、バカーンと強い衝撃がきました。白い光のカーテンの中、とっさに作業台の下にもぐりこみました。建物が崩れてきましたが、作業台のおかげで私はけがをしませんでした。

土手に出てみると、やけどによって皮膚がむけて指の先から垂れ下がり、幽霊のように両手を前に突き出している人たちが、次々とやってきました。人々は、庚午の方へと向かって歩いていました。やけどをした人に「お水をください」と頼まれたのですが、将校さんが「水やったら死ぬるけん、絶対に水やったらいけん」と言ったので、あげることができませんでした。そうこうしていると、ペッタリペッタリと雨が降り出しました。雨粒は黒く、指の先ほどの大きさがありました。普通の雨とは余りにも様子が違い、油の雨のようでした。「この雨にかかったらいけんから、防空壕へ入れ」と言われ、防空壕へ避難しました。

防空壕の中では怖くて泣いてばかりいました。「広島は全部焼けてもうない。帰っても家はないかもしれない」と言う人がいたので、家にいる母のことが心配になりました。父は呉にいるので、母と親一人子一人で暮らしているのに、母がいなくなったらどうしたらいいのか、想像しただけでも悲しくてますます涙が出ました。友達と「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。助けてください。助けてください」と、手をすり合わせて泣きながら祈りました。

しばらくして、みんなが外へ出てみようかと言うので、また土手に上がってみました。すると、やけどをした人が「お水をください、お水をください」と言いながら私たちの方へ来ていました。己斐町にいる私たちは、市内中心部の状況がわからず、まさかそんなにひどい爆弾だとは思っていなかったので、「どうして、そんなにやけどをされているのですか」と聞いてみました。しかし、返ってくるのは「わかりません」「お水をください」という言葉だけでした。「水をやったらいけん」という将校さんの言葉があったので、やはり水をあげることはできませんでした。やけどをした人々は、皮膚が垂れ下がり、顔は真っ黒、もんぺはボロボロで、とても言葉で表現できるような状態ではありませんでした。みんな、どんどんどんどん庚午の方に逃げて行きましたが、途中で倒れた人も多かったのではないかと思います。

防空壕の外に出た後、点呼がありました。並んでみると、一人足りませんでした。おかしいな、どうしたのだろうなと思っていると、友達の一人が運悪く工場のレンガ造りの門の下敷きになって亡くなっていました。
 
●己斐からの出発
どれくらいたったかわかりませんが、夕方頃、市内の火事が落ち着いたのを確認して、「各々家に帰るように」と将校さんから指示が出ました。そこで、北方面、広島方面などいくつかの組に分かれて帰宅しました。私は広島方面で、男女十人くらいで一緒に帰りました。道には多くの人が倒れており、道路もなく、どこがどこだか分からない状態でした。路面電車の軌道に沿って進むことになり、己斐町の電車専用橋を渡り、電車通り沿いに行き、福島町電車専用橋を渡りました。怖くてたまらなかったので、移動中は周りの様子を見る余裕がなく、街がどのような様子だったのかをあまり覚えていません。

天満川まで出ると、川より向こうがすべて焼けているのが見えました。天満町の電車専用橋を渡るときのことです。現在は歩道もある立派な橋ができていますが、当時は路面電車が一台通れるだけの鉄橋で、下駄を履いていた私は、立って渡ることが難しく、四つんばいになって渡りました。後から考えれば下駄を脱いで渡ればよかったのですが、当時はそこまで考える余裕もありませんでした。一緒に帰っていた男の人たちは足が速く、どんどん先に行ってしまいます。「待ってちょうだい。待ってちょうだい」と言いながら必死に付いて行きました。道も平たんなものではありません。電信柱や大八車が倒れ、馬や人も亡くなっているので、それらすべてを越えて行かなければなりません。下駄を履いているので、遠くから助走をつけて何とか飛び越えました。道中、たくさんの人が亡くなっていましたが、死体を直視することができませんでした。みんなに付いて行くのが精いっぱいで、ただただ、帰るのに一生懸命でした。
 
●市内の惨状
その後も電車通りに沿って進み、十日市を通り、相生橋に出ました。相生橋の上では、馬が死んでいました。

紙屋町まで戻ってみると、死体がたくさんあって道路が通れず、西練兵場の中を通って行くことになりました。西練兵場には溝が掘ってあり、その中で兵隊さんが銃を持って撃とうとしていたのでしょうか、銃をかまえたまま亡くなっていました。怖い怖いと思いながら通り抜けました。

再び、福屋百貨店前の電車通りに出ました。福屋の横を通るとき、「福屋が倒れるかもしれないから急いで走れ」と誰かが言うので、走って通り過ぎました。今考えると鉄筋コンクリートの建物が倒れることはないと思うのですが。福屋の周辺では、電車の反対側の道にもごろごろ人が倒れていました。その中にかすりの着物を着た人が見えました。かすりの着物というと、仁保町の方の人ではないかなと思って見に行くと、近所のおばさんでした。自宅にたどり着いた後に家族の人に知らせてあげました。家族は急いで大八車を引いて迎えに行き、連れて帰ったそうですが、すぐに亡くなられました。

道中、倒れている人々はみんな、里芋の皮をむいたように、ずるりと皮がむけて真っ白になっていました。そして、当時は縦一メートル横二メートルくらいの大きさの防火水槽があちこちに設置されていたのですが、その中に入って亡くなっている人もたくさんいました。怖かったのですが、一緒に帰っているみんなに遅れると家に帰れなくなってしまうので、立ち止まることもできませんでした。

京橋川までたどり着くと、川の中には亡くなられた人がびっしりと浮いていました。京橋川を渡り、稲荷町を通って的場町まで出ました。そこで、「川沿いにまっすぐ行ったら仁保町に帰れるよ」と言われました。大正橋のたもとの派出所まで行くと、段原が焼けていないのが見えました。段原が無事ならば仁保も無事だろうと思い、そのとき初めて安心することができました。ここまで来れば一人で帰れるからとみんなと別れ、東雲町のレンコン畑の中を通って自宅まで帰りました。
 
●家族との再会
私の母は、仁保町渕崎の自宅にいて被爆しました。原爆投下時の衝撃で、家の畳がバーッと上がったと言います。幸いなことに母はけがもなく、家も焼けていませんでした。しかし、私が帰ってこないので、ひどく心配していたそうです。近所の人に、「うちの娘(むすめ)が帰って来ない」と言ったら「おばさん。己斐の方は丸焼けだから」と言われ「どうしようかしら。うちの子が死んだら。一人しかいないのに」と言って、泣き叫びながら町内を歩いたそうです。夕方、私が家に帰りつき玄関で再会すると「ああ、戻ってきたわ」と言って喜んでいました。私は「お母ちゃんお母ちゃん」と言って二人で大泣きしました。その日のうちに、呉にいた父も私と母を心配して戻ってきました。海田市駅まで汽車に乗り、そこから歩いて帰ってきたそうです。

またいつ爆弾が落ちてくるか、そして、火が自宅付近まで迫ってくるかもわかりません。自宅で眠るのが怖かったので、六日の夜は、近くの黄金山に避難しました。渕崎地区の被害は少なく民家も残っていましたが、みんなで山へ逃げたので、民家はあいていました。ござを敷いて、蚊帳のようなものをつって、その中で寝られるようにしました。しかし、寝ていると街の方がバッバッバッバと燃えるのが見えるので怖くて眠ることができず、一晩中、街が燃えるのを見ていました。街は、二日くらい燃え続けていたように思います。山での寝泊まりは一週間ほど続きました。

呉に住んでいた父は八月六日に戻ってきた後、三日ほどして私たちが元気になると呉へと帰って行きました。
 
●親戚の看護
的場町の川べりで散髪屋をしていたおばがいたのですが、的場町の家に帰ったときにはすべて焼けてなくなっていたそうです。おばは、私たちを頼って仁保国民学校の臨時救護所へ親子で避難していました。救護所には、たくさんの人々がおり、負傷者は教室の床に寝かされていました。救護所には大橋先生という医師がいましたが、医師がいても薬がないので治療のしようがありませんでした。私は、昼は仁保国民学校の救護所へ、夜は仁保町柞木に住むいとこの家へ通って看病を手伝いました。

いとこの佐々木とみえは、同い年の十六歳で、的場町に住んでいました。帰宅途中に荒神橋で被爆しました。前からボカーッと爆風と熱線がきたので、身体の前面をずるりとやけどしました。仁保町が焼けてないと知り、仁保国民学校の救護所へ逃げてきました。「殺してくれ、殺してくれ。小夜ちゃん。苦しいから、殺してくれ」と言っていました。翌日の八月七日から身体にウジがわき始めましたが、ウジが動いていてもわかっていない様子でした。「痛いよ、痛いよ。助けて、助けて。」と言うのですが、消毒する薬も治療する薬もなかったので、ウジを取ってあげるくらいしかしてあげられることはありませんでした。

 しばらくすると救護所にも少しずつ薬が入ってきて、一、二か月たつと、いとこは元気になりました。しかし、月日がたってもやけどの傷が消えることはありませんでした。私は、手術をしたらと勧めたのですが、「痛いから」と嫌がっていました。しかし、周りのみんなからの勧めもあり、皮膚の移植手術を受け、やけどの痕はきれいになっていました。
 
●終戦
被爆から十日ほどたった頃でしょうか、被服支廠に来るようにと連絡が来ました。己斐の仕事場へ行ってみると、工場は倒れて、以前の面影はありませんでした。もちろん仕事もできません。最後に、工場に残っていた物資をもらい、リュックサックにつめて帰ったのを覚えています。

終戦を知ったとき、「うわあ、これでもう安心じゃ。戦争はもう終わったんじゃ。怖い思いをしなくて良いんじゃ」と、ほっとしました。戦争が終わって本当に良かったと思いました。

戦争が終わると、呉の海軍に勤めていた父も帰ってきて、親子三人暮らしが始まりました。
 
●戦後の生活
終戦後、私はまだ十六、七歳であまり仕事もなく、家事を手伝っていました。この時も、とにかく食べ物がなくて苦しかったです。母親が朝の四時頃に起きて歩いて広島駅まで行き、汽車に乗って庄原の方までヤミ米を買いに行っていました。着物とお米を替えてもらうのです。隣近所の人たちもみんな、ヤミ米を買いに行っていました。

あるとき、母親が警察に捕まってしまいました。当時は、たくさんの人が捕まりました。取締りが来ると、窓から米をバーンと投げ捨てていました。身元引受人が来ないと母親が帰ってこられないというので、友達と二人で汽車に乗って庄原まで迎えに行きました。今でも、そのことが強く記憶に残っています。

五年くらい、ヤミ米を買いに行くような生活が続きました。その後、母親が魚の行商を始めて、生活を支えました。近くの仁保の港でとれた魚を町へ売りに行くのです。チヌやタイやベラなど、色々な魚や貝がありました。平塚町や幟町へ売りに行っていました。待ってくれているお得意さんがいて、そこへ行ったらいつもまとめて買ってもらっていたようです。

戦争が終わってから、父親はあまり仕事をしていませんでした。あるとき、メチルアルコールを飲んだために目が見えなくなってしまいました。電球を目のすぐそばに持ってきても光が見えないというので、これはいけないと広島赤十字病院に行きました。眼球に直接注射をして治療するうちに、だんだんと見えるようになってきました。ところが、何も見えなかったうちは怖くなかった注射が、少し見えるようになると、注射の針が近づいてくるのが分かり、「怖い」と言って逃げていたそうです。

母親は、胆のうが悪くなるまで何十年も魚の行商を続けていました。私がまだ結婚していない頃、具合が悪くなって広島市民病院に入院したことがありました。ほかにみてくれる人がいないので、私が泊まりがけで付き添っていました。

二十歳を過ぎた頃から、和裁など、習い事をさせてもらいました。結婚したのは二十六歳のときです。どうしても結婚してほしいと頼まれ、近所に住んでいた男性と結婚しました。主人はレンガ職人で、後に東洋工業に入社し、定年まで勤め上げました。

私はと言うと、幸いなことに原爆による大きなけがもなく、また、体がだるいなどの症状も出ませんでした。主人との間には、三人の子どもに恵まれました。一度流産を経験しましたが、長男を産むときに不安はありませんでした。二十年ほど前に脳梗塞になりましたが、今では周りの人が驚くほど元気に回復し、娘と一緒に暮らしています。
 
●平和への思い
毎日、朝晩は仏壇に向かい、今日も一日元気で過ごさせてもらいましたとお礼を言いながら過ごしています。

テレビで、アジアや中東地域での紛争の様子等が流れると、娘に、「戦時中はあんなんだったんよ」と話をしています。今は食べ物がぜい沢に食べられるくらいありますが、戦時中は本当に物がありませんでした。また戦争が起きて昔のような暮らしになっても、今の人には耐えられないと思います。だから、もう二度と戦争はしてはいけないのです。

また、たとえば佐々木禎子さんのように、原爆の犠牲になって、世界中の人から祈られているような人もいますが、私のような被爆者は、もし死んでも誰も知らないままです。先日、折り鶴をつくって平和記念公園にささげに行きましたが、「やはり戦争はいやだ」と痛感しました。もう二度と、あのような怖い体験をしたくありません。 

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