●被爆前の生活
私は当時、県立広島第二中学校の二年生、十四歳でした。母と長男の私、次男の慧、三男の溟、四男の高、長女の岑子、五男の誠の七人で南観音町に暮らしていました。父は出征中で不在でしたので、母が近所の農家の手伝いをして、女手ひとつで家族を支えていました。戦時中ですから、食糧も乏しく大変貧しい生活でした。
当時学校では、ほとんど授業は行われず中学生は皆、建物疎開作業のため市内各地に動員されていました。空襲され焼夷弾や爆弾による火災の延焼を防ぐため、あらかじめ建物を取り壊し、道幅を広げる作業です。二中の生徒は水主町の県庁付近を割り当てられ、毎日炎天下の中、作業に従事していました。しかし、慣れない土木作業のせいか、誤ってクギを踏み抜き、けがをして歩けなくなる生徒が続出しました。作業が遅々として進まないため、業を煮やした軍の指導者は、作業から二中の二年生を外しました。翌日から私たちは東練兵場の食糧増産作業に移動することになりました。被爆前日のことでした。一年生は爆心地に近い水主町での作業が続き、全員被爆死しました。
●被爆の状況
被爆前夜、私は学校の夜間警備当番でした。当番を終えた翌朝、私は同じ町内に住む同級生の大本孫用君と一緒に、広島駅北側にある東練兵場へ向かいました。当時学生は電車に乗ってはいけなかったのですが、夜間当番の後は特別に乗車することができました。電車に乗り、運転手のすぐ後に立ちますと、モンペに鉢巻姿の女学生が運転しているのが見えました。当時、徴兵による人員不足を補うため、女学生が運転手として養成されていました。
電車が荒神橋の真ん中あたりに差しかかった時、突然、天井の電灯がピカッと光り、爆風とともにゴオッーと地球が裂けたかと思うほどの地鳴りがして、辺りは真っ暗になり電車が止まりました。私はとっさに「おかあちゃん!おかあちゃん!」と叫び、床に伏せたのか、倒れたのかわからない状態になっていました。暗闇の中で、しばらくじっとしていますと、下り勾配に沿って電車が再び動き出し、猿猴橋電停辺りで自然に止まりました。人間の声は一言も聞こえません。腰が抜けて立ち上がることができず、真っ暗な中を後ろから押されて、はって進みました。私は降車口の段差を踏み外し、外へ勢いよく転げ落ちました。その衝撃で足腰がシャンとして立ち上がりますと、大本君の姿が見えません。「大本君!」と叫びました。すると暗闇の中から「山下君!」と声がします。私たちは名前を何度も叫び合うようにしてお互いを見つけ抱き合いました。
すると、右手の建物の二階から「助けてくれー」と救助を求め叫ぶ声がします。大本君と「よし、行こう」と向かおうとした時、目前でザーッと建物が崩壊しました。先ほどまで聞こえた声は途絶え、辺りは静まりかえっていました。
その後、明るい方を目指して歩いて行きますと、私たちは猿猴橋へ出ていました。土ぼこりや煤が充満し視界の悪い陸地に比べ、川の上は水面が光を照り返してぼんやりと明るくなっていました。私たちはようやく周囲の様子を知ることができました。大本君と私は、広島駅の構内を通って集合場所の東練兵場へ向かうことにしました。広島駅に近づきますと、通勤や通学のため駅を利用していた多くの人が被爆し、そのまま倒れています。あまりに多くの負傷者が横たわっていましたので、私たちは踏むようにして構内を進まなければいけませんでした。
私はその時、被爆の瞬間に飛び散ったガラス片で、顔面などに切り傷を負っていました。しかし、大本君が「おまえ、血だらけだぞ」と言って手拭いで拭いてくれるまで、自分のけがに気が付きませんでした。
東練兵場に着くと級友たちがやけどを負って苦しんでいました。彼らは整列状態で、頭上を通過する飛行機を眺めている時に被爆した様子でした。皆やけどがひどく、まともに歩くことができるのは二人だけでした。私たちは、まだ一発の原子爆弾が落とされたとは知りませんから次の攻撃を恐れ、とにかく安全な場所を求めて走って逃げ続けました。
次に私たちは、二葉の里にある東照宮に向かいました。その後、尾長を通り比治山下へ出て、比治山橋にたどり着きました。橋の東詰から対岸を見ると、火災が起きているようでしたが、たいしたことはないと思い、二人で橋を渡ることにしました。ところが、渡り切ったと思った途端、周囲を火と煙に囲まれてしまいました。戻ろうとしても、もう方向がわかりません。熱風が吹き付け、真っ赤な炎が正面からも迫ってきます。「もうだめだ!」と二人で恐怖におびえ抱き合い、地べたにへたり込みました。すると足元のあたりは煙が漂っておらず、部分的に視界が開けていました。二人とも急に元気を取り戻し「オーッ」と声をあげながら来た道を走って戻りました。
すると今度は「止まれー!どこに行くかー!」と抜身の日本刀を手に持った軍人が怒鳴っています。私はあまりの恐ろしさに、一瞬殺されるかと思いました。大本君は朝鮮半島出身でしたから、関東大震災後に起きた朝鮮人を狙った暴動が頭をよぎったのです。しかし、その軍人は死体収容作業に従事するよう命令すると、去っていきました。時間ははっきりわかりませんが、昼過ぎには、軍による救助活動が始まっていました。橋のたもとに「暁部隊」と書かれたトラックがあり、倒れている人を次々に積み上げていました。自宅へ戻りたい一心の私たちは、隙をみて作業を抜け出しました。比治山橋から南へと逃げ、御幸橋を渡りました。被爆直後の御幸橋の様子は、現在も写真に残っていますが、あの通り負傷者であふれる悲惨な状況でした。その後、電車道に沿って日赤病院前、鷹野橋を通過しましたが、まだ余り燃えていませんでした。
私たちは、明治橋までたどり着きました。橋は負傷者で埋め尽くされています。聞こえるのはうめき声と「兵隊さん」「水、水」という声。足を踏み入れると負傷者たちは助けを求め、わらにもすがる思いで私の足首をつかみ、離しません。私たちは身動きが取れず倒れそうになりながら、つかむ指を一本一本外し、死に物狂いでその場から逃げ出しました。結局、橋を渡ることを諦めました。住吉橋、観音橋も同じ状況でしたから私たちは水中を渡らなければいけませんでした。
逃げる途中で、私は生まれて初めて人間の死んだ無惨な姿を見ました。中学生の私には大変衝撃的なことで、いまだにその時の記憶は強烈に残っています。それが一人、二人ではなく、至るところに遺体が転がっています。歩いている人の顔もやけどのせいで目鼻もわからず、ほとんど裸で男女の区別もつかない幽霊のような姿ばかりでした。皆行く当てもなく、フラフラとよろめきながら歩いています。街はがれきと死体であふれ、空地には遺体が山積し、異臭が漂っていました。戦時中で気が立っていましたから耐えることができましたが、普通の精神状態でしたら耐えられない状況でした。
●家族の被害
ようやく南観音町の自宅についたのは午後四時くらいだったでしょうか。まだ日中の暑さが残っていました。自宅は倒壊を免れていましたが、母ときょうだいの姿が見当たりません。近隣を探してみますと、自宅そばの畑で母と妹が転がるようにして横たわっていました。その日、母は一番下の弟を背負い、妹の手を引き南観音町の天満川沿いで、勤労奉仕作業に参加していました。屋外で被爆したためやけどがひどく顔は、腫れあがり目が見えません。「ウウウ」とうめくだけでした。その日は私も疲れ果て、そのまま畑で夜を明かしました。一晩中、空は真っ赤に染まり、市街地は延々と燃えている様子でした。
翌日から母と妹の看病が始まりました。医薬品不足の中で、「やけどにはジャガイモをすってつけたらよい」「ドクダミ草を飲んだらいい」など、どこからともなく情報が流れてきました。一時間おきに傷口から出る膿を取り除きましたが、母は激痛に苦しんでいました。幼い妹も同じ状態でした。元気なのは私一人でしたから、戻らない弟の捜索にも行かなければなりません。慧は市立造船工業学校一年生で十三歳でした。被爆当日は材木町に学徒動員されていましたので、近所の人と一緒に捜しにいきましたが、消息は全くわかりませんでした。多数の負傷者が運ばれた似島に収容されているのではないかと思い、何度か足を運びましたがむだに終わりました。母の禎子は、行方不明の慧がいつ戻ってきても入れるように、決して玄関のカギを閉めませんでした。ケンカばかりしていた弟でしたが、もっと一生懸命捜してやればよかったと、その日からずっと悔いが残っています。
その後、私たちは焼け残った自宅で生活していましたが、被爆の翌月に広島を襲った枕崎台風で壊れてしまいました。十月に、父、義信が復員して帰ってきました。しばらく廃墟の中、一家の生活が続きました。
●戦後の生活
父は復員後、郷里の私財を投じて昭和二十年十二月に広島戦災児育成所を市外五日市に開設しました。原爆により孤児となった者を育成するための施設で、八十人ほどの子どもたちがいました。私たちきょうだいは、その子どもたちと寝食を共にしていました。父からは「親がいない子どもがいるのだから『お父さん』『お母さん』と呼んではいけない。」と強く言われていました。孤児たちも、私たちも、『おじいちゃん』『おばあちゃん』と呼んで育ちました。両親は別棟で生活をしていましたし、家族団らんの記憶はあまりありません。育成所は昭和二十九年に広島市に移管し、その後父は国会議員として平和・厚生事業に尽力しました。父の職業柄、裕福な家庭と思われることがありましたが、父は自宅も売却し育成事業にすべてを投じていましたので、私たち家族は貧しい生活を送っていました。私はその後、東京に進学・就職しました。昭和三十八年に母が亡くなり、父の身辺の世話をするため私と妻は広島に戻りました。
●生き残った者の負い目と責務
私は、原爆について語ることをずっと避けてきました。少しでも話せば記憶がよみがえり夜は興奮して眠れません。語らないというよりも、語ることができませんでした。また、当時の状況を伝えようとしても、あの惨状を言い尽くすことはできません。思えば思うほど表現できず、中途半端になることが耐えられませんでした。しかし、生き残った私には亡くなった人の苦しみを伝える責務があると思っています。彼らへの負い目がそのように思わせるのかもしれません。
あの日、多くの人々が断末魔の形相で苦しみながら亡くなりました。だれがあの苦しみを与えたのかと憤りを感じます。肉親を奪われたことを思いますと、今でも腹が煮え繰り返るような気持ちです。それは「許す」とか「許さない」という単純に割り切れることではなく、理性を超えた複雑な思いなのです。
母校の慰霊碑の前に立てばいつも、全滅した後輩たちの苦悶が聞こえてくるようです。この死没者の無念の思いを、伝えることができない己の無力さをもどかしく感じながらも、同時に何とか伝えたいと強く思うのです。そこで、私は同窓会で体験記集を作ることを提案しました。一編の体験記では、あの惨状や死没者の思いを断片的に語ることしかできませんが、多くの体験記を通じて様々な視点から被害の様子を伝えたいと考えました。しかしその時はまだ、振り返ることがつらく、当時の心情まではつづることができませんでした。私はまず被爆当日の足跡を淡々と追うことから始め、体験記集を完成させました。
私から被爆の記憶が消えることはありません。忘れよう、諦めようと努力しましたが、決して忘れられません。生き残ったことに負い目を感じながら人生を送らなければならないのです。被爆していなくても、人生に苦難は付き物ですが、そういう苦しみとはまた別の苦痛を感じます。苦難をすべて原爆に結びつけるつもりはありませんが、私の心にいつも影を落としています。原爆による身体的後遺症だけではなく、精神的にも原爆にいつも引きずられているような生涯を送らなければならないのです。
●「廣島」と「ヒロシマ」
新聞などで「ヒロシマ」と片仮名で表記されることがあります。戦前は漢字の「廣島」しかありませんでした。私は被爆前までを「廣島」、被爆後を「ヒロシマ」と分けて表していると思います。この表記方法が象徴していますように、被爆前後で広島は大きく変わりました。
被爆前の広島は、日本有数の軍都であるとともに、浅野藩の城下町の名残を残す情緒豊かな町でした。老舗や高級料亭が軒を連ね、歓楽街には映画館等があり、いつも街はたくさんの人でにぎわっていました。祭りは盛大に行われ、神楽などの伝統行事も脈々と継承されていました。戦時中とはいえ隣近所はお互いに助け合い、一家団らんで裸電灯の下、食卓を囲むささやかで平和な生活がどこでも行われていました。
しかし昭和二十年八月六日を境に、一瞬にして何もかも消えてしまいました。多数の人や物が失われただけでなく、目に見えないもの―歴史、伝統、文化―も姿を消し、今日まで再興されていません。なぜかと言いますと、生粋の広島人はほとんど亡くなり、古文書も焼失したため、継承する術がないのです。これが原爆による最大の被害だと思います。
戦後、焼け野原となった広島には多くの人が入ってきました。復員兵や島しょ部、県外からの移住者がほとんどでした。「七十年間草木も生えぬ」ということで、代々の土地は二束三文で売られ、広島駅前にはヤミ市が栄え、誰もが日々の生活を送るのに精一杯でした。県、市の職員や警察官など、多くの公務員も負傷や死亡していましたから、広島の街は統率能力を失っていました。秩序は乱れ暴力が横行し、規律を守るよりも力ある者が幅を利かす時代が続きました。経済復興の陰で文化継承はないがしろにされていることを大変残念に思います。
●最後に
被爆後の私の人生を一言で表せば「苦しみ」です。私の心に深く残る傷痕は誰の仕業でしょうか。私はこの六十年間も続く苦難を語りつくすことができません。ひたすら祈ることしかできません。神仏に対して祈るわけではなく、黙して祈るのみです。ただ私はこの言い尽くせない苦しみを子、孫の世代には絶対に味わわせたくないと思います。そのために、私はあの惨状を語り継いでいこうと思います。そして広島の街が、あの日無念の思いで亡くなった犠牲者への慰霊と鎮魂の気の漂う、人びとの愛と慈愛に満ちあふれた姿になることを望んでいます。
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