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人生最初の記憶 
藤本 紀代子(ふじもと きよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 4歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2017年 
被爆場所 広島市(東観音町) [現:広島市西区] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の様子
昭和二十年七月、母・山下笹子(二十九歳)と父方の祖母・山下キミの三人で、北榎町の広島中央電話局西分局の向かいに住んでいました。父・山下徳一郎は、私が生まれて数か月後に、ビルマ(現在のミャンマー)に出兵して不在でした。

今思えば爆心地からの距離はさほど変わらないのですが、北榎町は危ないと祖母が言い出したため、東観音町に引っ越しました。その一週間後、人類史上最初の原子爆弾が広島に投下されました。当時四歳八ヶ月の私には、知る由もありませんでした。
 
●被爆の瞬間とその直後の惨状
八月六日の朝、引っ越しの荷物が片付いていなかったため、母と祖母は片付けを、幼い私は軒下でままごとをしていました。突然、ピカッと光った途端に、二階建ての家が一瞬で潰れました。何が起きたか全く分かりません。母が、崩れ落ちた屋根を踏みながら、「紀代ちゃん、紀代ちゃん」と私を捜しに来てくれました。母は家の裏の納屋に薪を運んでいる最中だったため、家の下敷きにならずに済んだそうです。周囲は真っ暗となり、しばらくすると一帯が燃え始めました。母が「あんた、よう生きとったね。よう瓦の下敷きにならんかったね」と言い、私は母にしがみつきました。火が迫り来る中、誰かの「川へ行こう」という声を頼りに必死で逃げました。

母におんぶされて逃げる途中、家の下敷きになって頭と手だけが外に出た状態の男性が、「奥さん助けて!」と言いました。私は、「お母ちゃん、助けてくれ言いよる」と母に言いましたが、既に火に包まれています。「お母ちゃん助けてあげんのんね」と言うと、助けたいけど自分たちが逃げないとどうすることもできないから、とにかく目をつぶっているよう言われました。また、ある人は猛烈な炎から逃れたい一心で防火水槽に入って、熱いと言って死んでしまいました。水だと思って入ったところ、中の水が高熱で煮えたぎっていたのでしょう。助かろうと思って水を求めて亡くなっていく人々、そんな光景を見ながら逃げ惑いました。
 
●死線を越えて
どこをどう逃げたのかは分かりませんが、母と私は天満川に架かる観船橋近くの雁木(階段状の船着場)にたどり着きました。母は手の小指を骨折した他、落ちてきた瓦で頭頂部を切って出血しており、民家に干してあった御腰(下着)を頭に巻いて処置しました。私も右膝と右足首をけがしていましたが、痛みや苦しさよりも、火が迫ってくる恐怖の方が勝っていました。

私たちは火炎から逃れるために、雁木の一番下に降りました。川に目を移すと、芋の子を洗うように数えきれないほどの女学生が流されています。口々に「お母さん助けて」「お母ちゃん、お母ちゃん」と叫んだり、「天皇陛下万歳」と言っている人もいました。母に「お母ちゃん助けてあげられんのんね」と聞くと、「助けるどころじゃないんよ」と。上からは火が、下からは水が迫ってきて、自分たちも首まで水に浸かっている状態でした。

口まで水がきている中、流されまいと必死で踏ん張っていたところ、一人の女学生が母に抱かれた私にすがりついてきました。きっと溺れる者は藁をもつかむ思いだったのでしょう。「この子を連れていかんといてぇー!」母が叫んで私を守ってくれました。その光景の一部始終をはっきり覚えています。七十一年たった今もなお、母への感謝の念に堪えません。
 
●川岸での出来事
母のおかげで流されずになんとか踏みとどまることができ、時間の経過とともに水が引いてきました。私たちはどこへというあてもなく、安全な場所を求めて川底の砂地を歩き始めました。足の踏み場が無いほど大量の魚が上を向いて死んでいます。溺れたのでしょうか、人間の死体も数えきれないほど転がっていました。息のある人も、目の玉が飛び出たり身体中の皮がむけるなど悲惨な状態で、よたよたと歩いています。その背中にハエがたかり、暑さのせいもあって、すぐにウジが湧いていました。

ある人が剥がれた自分の皮を引きずりながら、母に「奥さん逃げないで。さみしいよ。さみしいよ」と近付いてきました。私が「お母ちゃん、おばけがおるけん、早う逃げよう」と言うと、母に「そんなこと言わんのよ。あの人もさみしいんよ」となだめられました。でも、私は「嫌じゃ、嫌じゃ、おばけが来るけん嫌じゃ」と足早にその場を離れました。幼い私には、その光景はあまりにも衝撃的で、相手を思いやることはできなかったのです。母に呼び止められてパッと振り向いたら、その人は倒れてすでに息絶えておられました。
 
●避難所を求めて
その後、途方に暮れて雁木から上がってみると、あちこちでまだ火が燃えていました。なんとか火の無い所を見つけて腰かけていると、馬に乗った兵隊さんに声を掛けられました。行く所が無いことを伝えると、三滝駅に行くよう言われました。そこは、避難者が集まる場所になっているからだそうです。

けがをしているうえに、川の中に何時間も浸かった体を引きずりながら、息も絶え絶えに歩いて、ようやく三滝駅に着きました。そこには被爆した人々がたくさん集まっていました。赤ちゃんをおんぶしている若い女性が、母に「奥さん、後ろの赤ん坊生きています?」と尋ねました。その赤ちゃんはすでに亡くなっていました。母は、死んでいるとは言えずに「さぁ、ちょっと状態がよう分からんのんですが、私も今から西へ行こうか東へ行こうか分からんのです」と答えました。女性は「ああ、そうですか。よしよし」と、すでに事切れた赤ちゃんをあやしていました。とてもかわいそうでした。

しばらくすると、今度は軍の人が来て、約五キロ北に位置する安佐郡古市町の嚶鳴(おうめい)国民学校に行くよう言いました。交通機関は寸断されているので歩くしか手段はありません。母の出自は四国で、広島の地理に不案内でした。しかも、もう太陽が沈みかけています。母は、「もう、これ以上は歩けん。もう、ここで死んでもええ。ほいじゃが、ここで死んだらアンタが不憫な」と繰り返しながら、ぞろぞろ列をなす人々について行きました。私も頑張って歩いて、なんとか嚶鳴国民学校にたどり着いたときには、もう日がとっぷり暮れていました。ようやく体育館で横になることができて、炊き出しのおむすびと乾パンをいただきました。とはいっても、大豆が9割で麦が1割のようなおむすびです。「こげなものが食えるか」と言って、投げ捨てた人がいたのですが、私は極度の空腹に耐えきれず、そのおむすびを拾って夢中で食べました。乾パンは味付けも無くメリケン粉が焼いてあるだけで、お世辞にもおいしいとは言えない代物でしたが、とてもありがたかったです。
 
●祖母を捜しに東観音町へ
翌朝、祖母を捜すため自宅のある東観音町へ行こうと母に言われました。「嫌よ。行かんよ。遠いのに行かんよ」と私が言うと、「駄々をこねんと。おばあちゃんのお骨を拾いに行こう」と説得されました。出兵中の父が帰ってきたときに、母親である祖母の遺骨がないと申し訳ないとのことでした。

母に手を引かれ、歩いて東観音町を目指しました。右を見ても左を見ても死体が転がっており、見渡す限りくすぶっています。男女の区別どころか、手足の無い死体や首から上の無い死体など、悲惨な有様でした。消防関係の方と思われる方が、鳶口のような道具でそれらの死体を引っかけては、山のように積んでおられます。そんな死体の山が、街中のいたるところにありました。

それから約一週間、来る日も来る日も避難先の嚶鳴国民学校と東観音町を往復しました。遠くても歩くしかないし、死体の山だらけの道なき道を進みます。けがをした右足が化膿していたこともあって、行くのを嫌がる私に対して、「どうしても、おばあちゃんの骨は捜しに行かにゃいけん!」と譲らない母。毎日もめましたが、母に「お願いじゃけ行って。おばあちゃんのお骨がなかったら、お父ちゃんが悲しむけん」と頼み込まれて、結局行くしかありませんでした。避難所でも、重傷を負った方々のうめき声が聞こえるし、亡くなる方もいらっしゃいます。一人で待つことは到底できませんでした。

日を追うごとに死体の山は増えていき、街中が臭くてたまりませんでした。死体の山に重油か何かをかけて燃やしていたのですが、火元に近い下の方は焼けても、上の方が燃え残っているようでした。幼いながらに、地獄というのはこの世にもあるのだなと思いました。
 
●祖母の遺骨
連日捜しに行くものの、自宅付近一帯が跡形もなく焼けてしまっていて、どこが自宅跡地なのかも分からない状態でした。何日目か覚えていませんが、焼け跡に木製のみかん箱が置いてあり、その上にこぶし大くらいの骨がいくつか乗せてありました。祖母の骨かどうかは定かではありませんが、祖母だと思って持ち帰ろうということになりました。たとえ別人のものだったとしても、祖母の骨もどなたかが持ち帰って、代わりに供養してくださるのではないかと考えてのことでした。母が泣きながら「おばあちゃん、すまんね」と手を合わせていたことが、とても印象に残っています。のちに誓願寺というお寺に納骨して、供養しました。
 
●戦後の生活
終戦後、母の実家がある香川県三豊(みとよ)郡豊浜(とよはま)町箕浦(みのうら/現在の観音寺(かんおんじ)市)に身を寄せました。私が五歳の誕生日を迎えたころ、父が復員して箕浦に来ました。父とは、物心がつく前に離ればなれになっていたので、私は母の後ろに隠れて懐かなかったそうです。

その後、父方の遠戚を頼って広島県安佐郡祇園町西山本(現在の安佐南区)に移り住み、妹が二人生れて三人姉妹となりました。私は小児ぜんそくがひどく、お医者様のお世話になることも多々あったのですが、十九歳のときに良縁を得て結婚し、娘二人に恵まれました。
 
●被爆者健康手帳に対する葛藤
昭和三十五年、結婚直後(当時二十歳)のある日、母に呼ばれて被爆者健康手帳を手渡されました。私は、なぜ勝手にもらってきたのかと母を責めてしまいました。当時は、被爆者に対する偏見や差別がひどかったからです。

実は結婚する前に義理の叔母(主人の母の妹)から主人との結婚を反対されていたのです。義理の叔母は臨月のときに被爆し、胎内被爆した赤ちゃんを出産しました。その方は、知的発達に遅れがあって、現在も原爆養護ホームで生活されています。その経験があったので心配されたのだと思うのですが、主人の母が「気にしなくていい」とかばってくれて、めでたく主人と結婚することができました。

母は知人に証人になってもらって、手帳の申請をしたそうです。医療費の負担が少しでも軽くなればとの思いからでした。しかし、私は当分の間、医療機関を受診しても手帳を提示しませんでした。そのことを知った母に、お国のために殺されそうになったのだから、少しも恥ずべきことではないのだから提示するようにと言われて腑に落ちました。その後、はじめて主人に手帳のことを話したのですが、「ふーん、そうか。わしは、そういうようなことは何ともないで」と言ってくれました。
 
●永きにわたって続く被爆の影響 
被爆の瞬間に負った右膝と右足首のけがは、後年ケロイドになりました。現在は、ぜんそくに加えて、慢性間質性肺炎で衣類や冷暖房の調整が不可欠です。低血糖症も患っており、血糖値が下がると汗が出て手が震え始めるので、常にブドウ糖の補給が欠かせない体になりました。緑内障と白内障を併発している他、骨粗しょう症も発症しています。また、アナフィラキシーのため、インフルエンザ等の予防接種を打てないので、対症療法しかできません。全てが原爆の影響かどうか定かではありませんが、放射線はものすごく怖いです。

原爆の恐ろしさは、熱線や爆風はもちろんのこと、永きにわたって心身ともにむしばんでいくことだと思います。今も残るケロイドを見ると、当時のことが思い出されて涙します。ありがたいことに娘たちは今のところ元気ですが、被爆二世も手帳が取得できると良いと思います。
 
●今、伝えたいこと
私の人生最初の記憶は、被爆の体験です。四歳八か月にして惨状を如実に覚えているのは、それだけひどい状況だったからだと思います。戦争して得なことなど、ひとつもありません。戦争は、人間のエゴが引き起こしていると考えます。お互いがエゴを克服して仲良く手をつなぎ、戦争がどんなに無駄なことか、愚かなことかを認識することが、世界平和への第一歩となるのではないでしょうか。私は現在七十四歳ですが、一昨年緑内障を患い、失明の危機に直面しています。自分の目が見えるうちに、この世の地獄を見たことを後世に伝えたいと思い、今回語ることを決心しました。

最後に、私の命を救ってくれた母は、長い闘病生活の末、四年前に九十七歳で永眠しました。川に浸かりながら必死で私を守ってくれた母の姿が、今も脳裏に焼き付いて離れません。いくら感謝してもしきれませんが、ありがとうと伝えたいです。
  

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