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忘れることのできない光景 
新川 貞之(にいかわ さだゆき) 
性別 男性  被爆時年齢 28歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2017年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
大正六年生まれの私は、現在九十九歳、白寿の年を過ぎ、来年は百歳の紀寿の年を迎えます。牛田早稲田の家に住み、いまも残るガラス片が食い込んだ柱を見るとあの時代が思い出されて仕方ありません。なにぶん、年を重ねたせいで、記憶があいまいになっている部分もありますが、私の体験を伝える最後のチャンスだと思い、お話しすることにしました。
 
●被爆前の生活
私は高田(たかた)郡の吉田(よしだ)(現在の安芸高田(あきたかた)市)で育ったのですが、京都高等蚕糸学校(現在の京都工芸繊維大学)を出て、賀茂(かも)郡安芸津(あきつ)町風早(かざはや)(現在の東広島市)で国民学校と青年学校の教員を掛け持ちしていました。県知事から初任給五十五円という辞令をもらったことを今でも覚えています。教員をしていれば、召集にならないと親から言われていました。京都の学生時代に、召集を受け、陸軍第五師団歩兵第十一連隊で二年間、中国の上海(しゃんはい)、青島(ちんたお)、南寧(なんねい)で従軍した経験があります。召集解除になって復学し、卒業しました。それから、教員を務めていたのですが、県庁に勤務することになり、そのころに結婚しました。もう戦争のさなかです。妻の父親が昭和十四年に建てた牛田町(現在の東区牛田早稲田)の家に住むことになりました。妻の実家もすぐそばにありました。

県庁は水主町にあり、裏手には病院がありました。前職の関連で、教育関係の仕事をしていたと思うのですが詳しいことはよく覚えていません。妻が妊娠し、長女が生まれる直前の昭和二十年五月二十五日に召集されました。本土防衛の要員として福岡県八幡(やはた)市折尾(おりお)(現在の北九州市八幡西区)のお寺に駐屯しました。学生時代に召集されて、そのときに軍曹になったのですが、今回は補充兵なので昇進もなく、乙幹軍曹(一定以上の学歴を有する幹部候補生、甲種、乙種に分かれていた。)という身分で、班長として壕堀り作業の指揮をしていました。七月二十日に長女が生まれたことは手紙で知りました。
 
●広島へ
折尾の部隊に、広島に新型爆弾が投下されたという知らせが入りました。兵隊が指示を受けて視察して帰ったところ、広島は全滅で焼け野原になったということを耳にはさみました。妻や生まれたばかりの子どものことが気がかりでしたが、応召中の身分なのでどうにもなりません。八月十五日、天皇陛下の玉音放送を聞き終戦を知りました。皆声を出して泣きました。喜ぶものは誰一人いません。命の次に大切な鉄砲を置き、腰に巻いた薬きょうも外して置いて並べました。

米を三升もらい、広島へ汽車で向かいました。八月十六日です。山陽本線は、広島市内はまだ完全に復旧しておらず、己斐駅で降ろされました。己斐駅の少し高くなったホームから市内を望むと全部が焼野原でした。宇品がすぐ近くに見えるのです。己斐から牛田を目指して電車の線路を頼りに歩きました。これまであった目印になる建物が焼失しており、どの道を通ればよいのか分からなくなったのです。

まだ一部に死体が残っていました。忘れられないのは、真っ黒になった軍人の死体です。放置された遺体は、腹が膨らみ、このため軍服のボタンが取れて、真っ黒になった腹をさらしているのです。白いものが見えたので、近寄ってみるとウジが湧いていました。大きな軍馬が横倒しになって死んでおり、ひどい臭気を放っていました。ハエは、市内の至る所にいて、牛田にたどり着くまで、どこに行っても羽音を立ててまとわりついてくるので、手で払いながら、電車道を頼りに向かっていきました。

電線が垂れ下がった道を、線路をまたぎながら進んでいくと、途中、妻の兄が泉邸の近くに家を構えていたので、のぞいてみると、早くも小屋が建っていました。生きていることをお互いに確認して別れました。

神田橋が見え、橋を渡ると牛田です。橋のたもと付近は焼け落ちた家もありましたが、山側に向かってはほとんど燃えていませんでした。ただ、爆風で多くの建物は崩れ無残な姿をさらしていました。我が家も、屋根瓦はとび、壁も崩れ、ガラスや建具は全て吹き飛ばされていましたが、家は残っていました。妻と子も無事でした。

あの日、妻は家の中で子どもと一緒にいました。生まれて間もない我が子です。朝の支度をしているとき、一面が真っ白になり、妻は赤ん坊の上に覆いかぶさったのです。爆風によるガラスで左腕と右足首にけがをしましたが、長女は無事でした。妻の母親は、畑仕事で外にいてひっくり返り、ガラスの破片を顔面に受けたそうです。この惨劇の中を生き残ってくれた喜びに感謝し、合掌するほか何もありませんでした。
 
●被爆後の生活の思い出
その後どう生活したかはよくは覚えていないのですが、応急で家を修理してそこで生活しました。牛田は、爆心地からは北東の方角で、牛田山からのなだらかな下りの地形で、デルタの広島市内から見ると少しだけ高くなっています。すぐ南側に二葉山があるのですが、陰にならずに爆風をまともに受け、屋根が飛び、倒壊した家屋も多くありました。我が家も屋根が飛び、室内から空がのぞく状態でした。寝ていると、雨が入り込み、夜中に大慌てでトタン板を探し、応急で直してしのいだこともありました。

先ほどもハエの話をしましたが、戦後の広島はとにかくハエが多かったのです。どこへ行ってもハエが寄ってきて追い払っていました。

また、青いもの(緑の植物)がありませんでした。その点、焼夷弾攻撃を受けた大阪や東京とは焼け方が違っていたのではないでしょうか。原爆とはひどいものだとその時いつも思っていました。

このため、食糧不足も深刻だったのですが、近くを通る山陽本線の白島土手に、生き延びたヨモギが生えていることが分かり、これを摘みに行き、湯がいてしょうゆをかけて食べたこともあります。新芽ではないのでとても苦い味がしました。食べられる植物だとは知っていたのですが、その生命力の強さに驚きました。でも、おいしいものではありませんでした。当時は腹の足しになるものは何でも食べたのです。
 
●県庁に復帰し、美術の仕事に
何月に復職したのかは正確には覚えていないのですが、県庁に復帰し、また働くことになりました。当時県庁は、安芸郡府中町の東洋工業の中にありました。およそ一年ほど向洋に通い、昭和二十一年の夏に、県庁は霞町の兵器支廠の跡に移転しました。翌年の二月にあの峠三吉が県庁に就職し、短い間でしたが、机を並べて仕事をしました。仕事は、五月に施行された新憲法を普及することです。憲法普及会というのを組織して、新憲法が県民・国民に根付くよう様々な活動をしました。戦争中は民主主義や社会主義というと口にしただけで捕まえられる軍国主義の時代でした。これを大きく転換してデモクラシーの時代へと導いたのです。主導してくれたのは青年団や婦人会でした。当時の青年たちは本当に立派だったと思います。

峠とは同い年で三ちゃんと呼んで、気も合いよく飲みにも行きました。すでに結核に侵されていて、よくせき込んでいました。当時は、狭い執務環境で咳き込むため、峠以外にも県庁で結核に侵されていた者も多く、亡国の病と言われていた時代です。私ももらったのか、ろく膜にかかり三カ月ほど入院したことがあります。峠は症状が悪化し、西条の療養所に入りました。見舞いに行くと、三ちゃんは白い布で自分を包んで送ってくれと言いました。役所の仕事を十分する人ではありませんでしたが、頭がよくて、人柄のいい人でした。

それから、美術関係の仕事をしなさいと言われて、昭和二十四年に戦後初めての美術展の開催を担当することとなりました。広島県美展は、大正時代に始まり、いまの原爆ドームが広島県物産陳列館と呼ばれていたころから会場となった、伝統のある展覧会でしたが、戦争の激化により中断、敗戦後の混乱で、すぐには再開できずにいたのです。

今は県美展と呼んでいますが、戦後第一回の展覧会名は広島美術展だったと思います。原爆の絵を残しておられる洋画の福井芳郎さんや日本画の浜崎左髪子さん、書では竹澤丹一さんらが審査員となり、彼らの指導を受けながら準備を進めました。中国新聞社にも主催者に加わってもらい出展を呼びかける記事を書いてもらいました。県内で巡回展をするので、地元市町村の教育委員会にもお願いして参加してもらいました。

主会場は福屋百貨店です。福屋も当時はまだ占領軍に接収され、企業の事務所として利用されるなど、全館での営業がまだできなかったのですが、三階がすでに様々な催し会場として利用されており、使うことにしました。芸術家の世界もいろいろと派閥があって、審査員にみんながなりたがるので往生しました。ちょうどそのころだったと思うのですが、社会教育主事の任用資格を取るため文部省の講習を受けに二~三カ月東京に行ったことを覚えています。

こうして、広島県で唯一の総合美術展の開催をとおして、芸術家の先生方と親交を深めることができました。特に福井芳郎さんとは気が合いよくお酒を飲みに行きました。私と同様にぐうたらなところのある人でしたが、あれだけの素晴らしい作品を残した、立派な芸術家でした。

その後も、県教委で美術の仕事に携わり、中央の展覧会の巡回展の広島開催、いまでもデパートなどでよくやっていますが、これらの開催のお世話も随分やらせてもらいました。昭和四十三年に中国地方初の公立美術館となる広島県立美術館が開館した際には、総務課長に就任し、その後副館長となり定年退職するまで勤務しました。私らのころ管理職は五十五歳で退職でした。広島県の美術の振興にいささかなりとも貢献できたのではないかと自負しています。
 
●伝えたいこと
私も戦争を体験しましたが、戦争は嫌です。戦争はしてはいけない。平和と文化というのはありがたいものだと思います。私は文化をとても大切に思っています。文化を愛することは、戦争をしないこと、平和につながるのです。このため、私は長年ユネスコとペンクラブの活動に参加してきました。さらに付け加えると健康が大事です。健康に留意して平和や文化について思いを巡らす。いまも、美術館や画廊を巡り、そこで知り合った人とコーヒーを飲みながら対話し、ゆったりとした時間を過ごすことが人生の楽しみになっています。

人は出会い、対話することを繰り返します。特に年齢や名誉、地位に関係なく自分が見たことや思うことを対話しながら、共有することを大事にしないといけません。 

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