小学校六年生でしたが夏休みもなく登校して授業や作業をしていました。一時間目始業教育勅語を全員で誦えておりました。ピカ!一瞬私は隣りの役場(村で一番大きい建物)に爆弾が落されたと思いました。
平素の訓練通り机の間に伏せ目と耳を指で覆ひじっとしていました。先生の指示で近くの川土手に避難しておりました。こわくて必死でした。下校途中黒い雨が降って来てブラウスは灰色になっていました。
その時黒いすすけた顔、素足、ぶら下った服の人の列に出逢いました。後から後からとても速い足で西へ西へと歩いて行くのです。次の日から五、六年生は登校することになりました。学校はやけどけがをした人が講堂一杯に敷かれたむしろの上に伏せて赤チンを付けられたり、頭に包帯をしたりうめいている。私達は毎日むしろの間を掃除したり食事(梅干がゆ)を運んだり、二日目三日目どんどん亡くなってゆく人で運動場は死体の山でした。そして臥している人の傷にうじ虫がわいていたのもはっきり覚えています。校長室、応接室にもござが敷かれ村の有志の息子とかが寝かされていましたが、まもなく亡くなられたということでした。
となりのお兄さんが建物疎開の作業中土橋で被爆、トラックで会社(現在の中国醸造)まで帰り、おじさんがリヤカーで連れに行き座敷に寝ていましたが一二日頃亡くなったと思います。葬式の時上空を敵機が群をなして飛んでゆきました。焼き場はいっぱいで次々穴を掘って焼かれ、絶え間なく立ちのぼる煙で当分悪臭がただよっていました。伯母、従姉弟三人を亡くしました。
現在仏の核実験には憤りを覚えます。 |