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被爆体験について 
藤本 和一(ふじもと かずいち) 
性別 男性  被爆時年齢 28歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島鉄道局(広島市宇品町[現:広島市南区宇品海岸三丁目]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は広島鉄道局の貨物輸送の職員で八月五日は当直で構内に在る停車場司令部内の所定の部屋で勤務し非番日の朝八時一五分室内で被爆し幸ガラス破片のケガ位で直に情報連絡の為徒歩にて宇品線沿いに広島駅へ向う(九時頃局出発)。一〇時三〇分頃段原付近で重傷の被爆者とすれ違う。猿猴川の鉄橋付近に来た時広島駅方面は火災で行けないので広島操車場から東練兵場へ廻ったが負傷者、避難者でごったかえし一二時〇〇分頃やっと駅へ行ったものの司令者が不明であちこち探し廻る。

一三時三〇分頃か、局から来た救援隊と会い、通信杜絶のため山陽線がどこまで通信が活きているか確認のため同僚一名と一四時過頃出発。常盤橋を渡り白島を通ったが陸軍病院の兵隊、白衣の兵隊の死体累々。三篠橋を渡ったがその先は通行できそうないので近くの山陽線に上り線路上を歩いて西に向う。途中両側の田の中の稲の葉は黒く焦げているのが印象深い。一六時頃やっと己斐駅に着き駅長と会いそこまでは下関方面との通信が活きていることを確認する。そこで乾パンをもらい昼食する。自分の水筒の中味は広島駅を出発直後饒津神社の前で倒れていた兵隊さんに水をせがまれて三、四人ばかりに供給したので己斐につくまで飲まず食わずで歩いたことになる。己斐駅長に兎に角広島駅付近は全滅の状態だし、市中も火災で広島市はなくなって了ったようなので救援の人と薬と食料を送ってもらうよう連絡を頼み一七時頃か帰りは市中の道路を引返す。途中火災、煙の中を通ったが歩く程に焼野が原で方向は見易いが死骸の散乱する中急ぎ二〇時頃かやっと広島駅に辿りつく。対策本部は広操にあるときゝ二一時頃か貨車に設置された本部へ報告する。

二葉山麓の第二総軍から戦時中につき山陽本線復旧を急ぐようにとの指令があった由(饒津鉄橋上で貨物列車が爆風で脱線転覆していた)。夕食も広操では不可で二二時〇〇分頃海田市駅まで臨時列車で行き食べ、その夜はホーム上の長椅子で仮眠した。

困ったこと
(一)食物がなく空腹であったこと、補給方
(二)通信施設が全壊したこと…復旧手配に困る
(三)空襲情報が入手できなかったこと
(四)要員の確保ができなかったこと
(五)連絡すべて徒歩であったこと
(六)家族への連絡不可
(七)休養ができなかった

私は芸備線の吉田口に疎開していて家に帰ったのが一〇日で帰った時家族からユーレイと疑れて笑ったことです。

妻は私が死んだものと思い長男(一才)を背って探しに行くことにしていたそうです。 

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