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被爆体験について 
佐川 修(さがわ おさむ) 
性別 男性  被爆時年齢 6歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 舟入国民学校(広島市舟入川口町[現:広島市中区舟入南二丁目]) 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 舟入国民学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二〇年八月六日早朝、父は横川方面に外出。母は町内会より雑魚場町方面に建物ソカイに行きました。私は舟入小学校一年生で当時笹村教頭先生のもと朝礼中でした。B29の爆音が聞こえ、東北方面を見上げるとキラッと光るB29の姿を見る事が出来ました。その直後、空はまっ暗になり、ものすごい爆発音、と共に空から瓦、木切れその他色々な物が雨、あられのごとく降って来ました。

幸、体にけがはなく担任の先生の指導で点呼をしてもらい、井上光司君(当時二年生)と泣きながら家に帰りました。

家には長姉と妹が心配して待っていました。しばらくして母が全身にやけどを負い頭皮が毛髪と共に前面にたれさがり、私や妹の名前をさけびながら目の見えない状態で帰って来ました。すぐ江波山に避難する時父が帰って来ました。帰える途中で下敷になった人を何人も助けたと云ってました。

夕方になり舟入南一丁目(現在の)の父の友人の外林先生(後の舟入高校校長)宅に同居させてもらいました。何の薬もなく、母のやけどにただ、天プラ油を塗るだけでしたが、身体中にうじ虫がわき、それを取り除くのが私の仕事でした。

八月一二日身体中うじだらけになりながら母は死亡しました。

お盆すぎて集団ソカイしていた姉二人、兄一人も帰って来てにぎやかになり秋には実家焼跡にバラックを立てて生活をしました。父も昭和三一年九月一日原爆症でなくなり、長兄も昭和六〇年一月二日同じくなくなりました。

私も現在五七才になりましたが原爆による高血圧、胃かいよう、肝臓、不整脈で苦しんでおります。

あと何年生きれるか、大変不安です。二度とこの様な事のない世の中にしたいものです。 

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