昭和二〇年八月六日朝、学徒動員先の(呉海軍施設部)呉市広町のトンネル工事現場事務所で執務中、ものすごい閃光あり。電線のスパークかと全員(四人)で外に飛び出してキョロキョロ。しばらく後ドーンと大音響。びっくり仰天して防空壕に飛び込む。何が起きたのかさっぱりわからず、しばらくして外に出る。西の空に何とも云えぬようなキノコ雲を見る。午後から破損した列車が広駅に到着する。「比治山の火薬庫が爆発したらしい?」その他色々な情報あり。
翌朝、広島出身者は帰宅するよう伝言あり。海軍の炊出し食糧運送用トラックに便乗し出発する。途中、天応付近より広島市内の火災の煙が望見され気もいら出つ。昼前広島市内に到着し大正橋付近の交番所で炊出しむすびをおろし、比治山線電車道りを南下する。途中鶴見橋付近で人を焼く何とも云えぬにおいをかぐ。また電柱が比治山寄りに傾いているのが不思議でならず。(比治山火薬庫の爆発とちがう?)
皆実町二丁目の家の前で下車す。西側は焼野原、東側は家が半倒壊。近所のおばさんと逢い家族の安否を聞く。
「父はケガをして千田町の会社、母は田舎へ、妹は不明」早速父の会社へ行く。途中御幸橋の上の歩道はランカンは倒れ死人で一ぱい。父は半身大ヤケドで会社の防空壕で会う。顔の半分ヤケドで丸くふくれ苦しそう。早速軍のトラックに便乗し宇品の運輸部内の仮病院にて治療を受ける。そのとき父の白いワイシャツが背中の皮フにべったりついており、軍医云わく、「物の不自由なときだから」とシャツを切らず身と一しょにはぐ。その後へ油を塗っただけで終る。また千田町の会社へ帰り、父も妹のことが心配で学校(当時の第二県女)へ行って見よとのこと。学校へ着いてびっくり。妹は全身ヤケドで教室で寝ていた。(東練兵場での芋の草取り奉仕で被爆)どうしようもない。そこへ母と親戚の叔父、祖母の三人が大八車で迎えに来る。やっと一安心。帰途千田町で父を乗せ夕やみの市内を電車道づたいに横川を通り安佐郡の安村(当時)の実家にたどりつく。それから母と二人の永い悪夢の看病生活が始まった。 |