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被爆体験について 
藤井 澄(ふじい きよし) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
数日来のすごし方と同じであったなら、その日私は爆心地に近い水主町の叔母の家で直爆死していた筈である。叔母は元安川河畔で旅館を経営しており、屋号は天龍館といった。

昭和二〇年八月、私は学徒動員切替えの準備で休暇をとっていた。上級校の動員先の岩国燃料廠は六月以降、米軍の爆撃頻りで損害は都度激しさを増していた。そのため私は最悪被爆死もあると考え親戚や親友に会っておこうと俄かに行動を起した。即ち八月五日の夕食後同居の従姉と僅かな会話のあと、安佐郡安古市町の伯父の家に赴くべく天龍館をあとにした。従姉とはそれが最後となった。八月六日午前八時一五分、私は緑井村の八木峠を可部に向って自転車をこいでいた。大林小学校の代用教員になった友人に会うためであった。その時、反対の広島方面からドーンという鈍い音に振り返ると白いきのこ雲がしゃくるように舞い上っていた。暫くすると沿道の家から「広島がやられたげな」と大声が聞えた。

古市にとって返した私は町長である伯父から「救援隊を出すからお前も入って救助に行け」と指示され、伯母から水筒を受取るや十数人の自転車隊で出発した。救援隊は古市出身の負傷者を救出するのが任務であるが、出発のときすでに「広島は全滅らしい」ということであり、それは殆ど徒労であることがあとで判る。隊員はそれぞれ身内の者が広島市内に勤務或いは学徒動員で出ており、個別に救助に向うというのが本心であったと思う。私も早く水主町の家に帰りたかったが、一方で伯父の次男である市立高女の教師を救出する任務を負ったのである。やがて我々は下祗園の辺りでこの世の人とは思えぬ異様な人々の行列に出会ったのである。先ず男女の見分けがつかない。衣服は半裸でボロ切れをかろうじてまとった状態。頭はざんばら髪、顔は腫れつぶれ目はあるのか、見えるのか。体のあちこちが焼けただれ、肩から腕から手の先から皮膚が掻きおろしたように垂れさがっている。そして全員跣である。それは、焦熱地獄からの脱出はかくやと思われる凄じく惨たらしい姿であった。負傷者の列は十数人続き、途切れて数人、また数人、行列は延々と続いた。長束、新庄を経て三篠と思われるあたりに入ると、家が倒れて瓦や壁が道路を塞ぎ自転車をこぐすべはなく、すでに自転車隊は四分五裂の状態になった。そしてあちこちで火災が起きていた。私は尚二~三人の隊員と進み半壊状態の横川駅と車両を見乍ら自転車を押した。ところが数百メートル先の横川橋が黒煙を上げて燃えているのを見る。そのため鷹匠町からの入市は諦らめ、三篠橋への迂回を試みたが途中の火災に遮られ入市を断念せざるを得なかった。焼けこげた瓦礫にタイヤをちぎられ自転車は使いものにならず放置、徒歩で帰途についたがどこをどう通ったか記憶にない。

翌七日早朝出発、今度は単独の自転車である。途中で行き倒れの負傷者を近くの人が様子をみたり、数人で運ぶさまを次々に目撃する。

三篠町一帯は尚燻っていて死臭のまじった異様な臭気が流れていた。私は今度は迷わず三篠橋に進んだ。あちこちで火災は続いており、熱射の強い所を避けて入って行く。白島から上流川を通って八丁堀に出た。燃え続ける市街はいくつかの大きなビルの残骸のほかは煙をすかしてみても一面のどす黒い瓦礫だった。防火用水槽に上半身を突っこんで動かぬ人、水槽から首だけ出している人、その周りに脚を投げ出したり、うずくまっている多くの人、みなこと切れているようだった。暫くして黒い石段に腰かけた人の手が動いた。一瞬私はたじろいだ。見れば腫れつぶれた口から声がする。「ミズ・・・・ミズ・・・・」かすかに分る。私は躊躇したが、すでに温くなった水筒の水をくんでその人の口へ運んだ。必死に手を添え吸いつくように一口呑んだ途端その人はよろっと倒れ動かなくなった。水を呑ませたからだ。いやあれだけ「水、水・・・」と求めていたんだ。それから私は十人位の人に水をあげたと思う。末期の水と分っていながら・・・・。

そして水主町に行く。石塀はどす黒く砕け叔母の家がさだかでない。完全に焼け落ちていた。見れば元安川には夥しい死体が浮いていた。すぐ近くの県庁へ疎開作業に出た従姉はダメだと思った。私は気をとり直して舟入へ行き市立高女、運動場の防空壕で従兄を発見。肩胛骨を骨折し足も負傷しているので一度古市に戻りリヤカーで救出したのである。

このあと私は約一ヵ月、毎日市内を回ったが徒労だった。以上。
  

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