八月五日は女専(現広島女子大)の宿直で、翌六日は午後運輸部で勤労奉仕をしている生徒の監督に行くことになっていた。朝女専の近くにある遠縁の家により話をしている時被爆した。幸い皆助かり礼を云って出た。女専を見ると静かだし、運輸部の方も大丈夫だと聞いたので、ひとまず私の無事を知らせようと、水主町にある家へと急いだ。帰る途中そこはまさに生地獄であった。路上に横たわる人を飛びこえ我が家へと急いだ。明治橋から川向こうは見渡す限り一軒の家も立っていなかった。私は橋を渡って川に降りる石段で母と嫂を見つけた。母は髪の毛は逆立ち、額、手首から血が流れ口は三つ口のように裂けていたが、母に抱かれている嫂の顔を見て気が狂いそうになった。左眼の中央より顎にかけて頬は真二つに裂け、骨が露出している。眼球が飛び出し、出血がものすごい。私はタオルを渡し、靴をはかし明治橋から大手町へと逃げた。途中「お母ちゃん」と呼ぶ兄に出合った。髪はなく鼻も黒焦げ、後頭部からは血が流れ、右の耳は半分しかない。その上全身火傷で、ズボンが前だけぶら下っていた。でもこんな混乱のさなかに会えた事は本当に幸運だった。
兄と嫂はトラックで、母は歩いて共に運輸部へ、私は女専から運輸部へと向かった。生徒の監督としての仕事をしながら、やっと三日目に再び四人一緒になることが出来た。それから私は父を捜しに出て四日目に被服廠で見付けることが出来た。翌五日目夕方に担架で運輸部に連れて来て貰い、六日目の朝静かに息を引きとった。兄から見れば父の火傷が軽いように見えたが、やはり年のせいか弱るのも早かったのだろう。その後宇品も危険だからと、小屋浦の野戦病院に移ることになり、やはり動くのがいけなかったのか兄は翌一四日終戦の詔勅を聞かないで黄泉の客となった。女専の生徒さんや、暁六一四〇の隊の方々の心からなる援助により、当時皆が一緒になることが出来たのは本当に幸せであった。母は原爆による病気と闘い乍ら、九五才迄生きた。嫂は京都の実家へ帰り、眼の手術を四回と頬の整形手術をしたが、やはり元のような顔にはならなかった。
私も戦後直ぐに高熱にうなされて死にかけたが、どうにか助かり、三人の息子を持つ事が出来た。
想像だにしなかった悲惨な目にあったが、どうにか戦後五〇年を生きて来た。もう二度とこのような戦争をしてはいけないと声を大にして叫びたい。 |