私は当時中島国民学校二年生でした。五、六年生は郡部に疎開し、一~四年生は現在の加古町が、教室となっており始業前でしたが、八時一五分入口が、ピカッと光り、しばらくしてから家屋が崩れ下敷となりました。幸い私の机は浴場入口附近でしたので、机の御陰もあり、なんとか外に出る事が出来ました。下敷になっていた折同級生の痛いよー、熱いよーの声を聞いた記憶があります。当時の同級生の何人が犠牲になったのか、現在も知りません。外に出て、家に向っていると、兵隊?さんに県庁方面に逃げる様に云われましたが、母の居る家に帰り着きました。そして母を呼びますと倒れた家屋の下から私の名前を呼ぶ声がするのですが、どうも隣りの屋根の下から声がする様でした。後で思った事ですが爆風で左に寄ったようです。側を通る大人の人に助けを呼んだのですが、駄目でした。母と二人で天井を持ち上げ建物のすき間から母と弟二才を、やっと助け出す事が、出来ましたが、祖母は、梁の下敷となり、助け出すことも出来ませんでした。
三人で、すぐそばの川の石灰運搬船に逃れ火災の落ち着く迄舟の中に居ましたが、川は洪水の様ににごり、早い流れで、馬の死体や人が材木につかまって流されているのを覚えています。そして母に連れられ、御幸橋を渡り宇品の親戚に着く事が、出来ましたが私の後頭部のケガが大きい為、近くの外科病院に連れてゆかれ、当然麻酔もなく、看護婦と母の二人でおさえて、三針縫ったそうです。
小さな傷も含め現在でも身体全体に四ヶ所傷跡が残っています。八月九日には豊田郡赤向坂に行き一年程過し又、父も兵隊より戻り広島に帰り現在に至っています。母も七九才になりましたが、今の所原爆等の影響もなく過しております。尚弟は九才で事故で死去しております。
あの時の惨状、死体があちこちに転がり、死臭がした状況は五〇年経った今でも目に浮びます。運命の分れ道あの時、机が中程であったら、県庁方面に逃れていたら、又広島にずっと居たら現在の自分は無いのではと思ったりもします。 |