一九四五年九月八日裸電球がまん中に一つ。うす暗い農家の納屋に蚊帳が吊してありました。蚊帳の中には四才の妹が静かに永遠の眠りについておりました。妹の死の宣告を受けてからの母はいっそう放心状態が強まり、妹の顔をなでながら「死にたい」と洩らし続けておりました。生き残った者みんな苦痛にさいなまれ、言葉を口にすることが怖く無言のままでした。幼かった妹と弟はふとんに横になりましたが、父と母と私はじっと座って夜を過ごしました。恐しくて淋しくてじっと堪えていました。早く夜が明ければよい・・・・。涙はなぜか出ませんでした。平和な今の時代に育つ人たちは、誰がこんな怖い経験を信じるでしょうか。
八月六日、富士見町(一・一キロメートル)の自宅で、姉と弟を失いました。火がめらめらと迫ってきて母と私は二人共助けることができなかったのです。「お母さんもたみちゃんも早く逃げて。私が犠牲になるから早く逃げて」直後姉は気を失ったようでした。姉は二階の私の部屋で、「早く出かけよう、一緒に鷹の橋まで行こう」と声をかけに来たところでした。
つぶれた家のすき間の下の方から泣き狂う弟の声。あちこちから火の手が上がっています。「誰か助けて下さい」人の影は殆ど見えません。五~六軒離れた家のおじさんが、よろめきながらむこうへ歩いていきました。放心状態だったのでしょう。「れいちゃんごめんね。許して許して」泣き叫びました。後ろを振りむき振りむき「許して許して」と叫びました。頭が狂いそうでした。つぶれた家の上を火を避けてやっと通り抜け広い道路へ出ました。母としっかり手をとりました。自宅あたりを見つめて手を合わせました。もう一面火が回っていました。
道路は地獄でした。これがこの世の出来事か。いったい何が起きたのか。たくさんの人が助けを求めていました。気がついたら私たち血まみれで、服がちぎれ身体の一部がのぞいています。母が服をぬいで私に着させてくれました。もちろんはだしです。
以前からもしもの時にはと打ち合わせていた中心地から少しはずれた父の会社へ夕方行きました。比治山で顔や手を洗い、水を呑んで、その後、大洲からトラックで海田のお寺へ避難しました。境内には、たくさんのむしろの上に人々が横たわっていました。炊き出しのおにぎりも口にできず食べられる人に差し出しました。
会社へ引き返してみると、国民学校へいっていた妹と弟が友だちを連れ一緒に逃れてきていました。父は富士見町の自宅へと出かけたが火に塞がれて近づけず引き返していました。母と私は「れいちゃんもたかちゃんも助けてあげられなかった、ごめんね許して」と言うと、妹と弟は「どうして死んだの」と声を上げて泣きました。
母は無口になりました。そして時々「死にたい」とつぶやくようになりました。食事も進まず、やせ細っていく姿は異様で、そんな母が怖い気がしました。どんなになぐさめても、声をかけても苦痛にさいなまれている母にとっては、何の効果もありません。妹が亡くなった翌日九日の夕方、母はとうとう死にました。八月六日原爆が落とされたその瞬間から亡くなるまでの一か月、原爆症の苦しみより、もっともっと大きな苦痛に心がぼろぼろになっていたのです。
一〇日には私の死が告げられていたので、一一日にいっしょに葬式ということだったようです。九日には狭い蚊帳の中に二つの亡きがらが並べました。考えただけでも気が狂いそうになる程怖いことです。私は母が息を引き取る、数時間前母屋の人のご好意で庭に面した母屋の一室に臥せておりました。九月まだ残暑が厳しいというのに私は瓶にお湯を入れてもらい、冬ぶとんをかけてもらっていました。足がたたない程弱っていたのです。
結局、母と妹の葬儀(といっても府中から曹洞宗のお寺からお経をあげに来て下さっただけです)は一一日に行いました。ご近所の方々が大八車に母のお棺を下に妹のお棺を上に乗せて細い道を下って行きました。中山の土手にはいくつも穴が掘ってあり、毎日毎日白い煙が立ちのぼっていました。そこで、母と妹はお骨になってしまったのです。
私も何か月かかかって体力を恢復しました。ふしぎとしか言いようがありませんでした。しかし、心身共に恢復する迄何年の歳月がかかったのでしょうか。心はもう恢復しないままかもしれません。
富士見町の自宅で、姉や弟のお骨を掘り出す夢をみて、うなされたり、泣きわめいて目がさめることが続き、夢をみなくなるまで何年の歳月がかかったかわかりません。
家族をあのとき救い出せなかった私は今でも苦痛にさいなむのです。
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