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被爆体験について 
友谷 幾(ともたに いく) 
性別 女性  被爆時年齢 32歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

当時私は広島の爆心地から一・五キロメートルの場所に住んでおりました。七月も終り頃から空襲がひどくなり安佐郡落合村に住んでいる友人のお宅へ疎開のお願いに行ったのが八月五日でした。

友人の一人息子さんに学生で広島の学校へ通学しており、その息子さんと明朝一緒の列車で広島へ帰る約束をしてその晩は泊めていただき、六日、朝子供がぐずったりして時間におくれてしまい息子さんだけ広島へ向ったのでした。次の列車に乗るため駅へ向かう途中「ドン」と不気味な音がして思わず子供をかかえて伏せました。学校ではガラスの割れる音、子供達の泣き叫ぶ声で大変でした。「駅へ行ってももうだめだ」と次々に引返してくる人たち、私共も仕方なく引返しました。国道は避難してくる人でいっぱいで、初めて広島市内の惨状を知りました。その夜は息子さんは帰らずご両親は探しに出られ三日目に探し当てられたのですが顔が変わってしまって分からず向うから「お母さん」と言われて初めて我が子と分ったと話しておられました。矢口といふところに農協の倉庫がありそこで息子さんは治療を受けており、お見舞いに行った私は驚愕しました。市内にはまだ行っていなかったので火傷やケガ程度だろうと思っていたのです。後で原子爆弾だと知ることになるのですが・・

重傷者ばかり寝かされた救護所の様子はまるで地獄の様相でした。感覚を失い腐りかけた指の間から這い出す蛆虫を取ってもらっている人、背中中大やけどでうつぶせになったままの娘さん、四○度近い暑さの中、薬品と排泄物のまじった様な異臭の中で息子さんは頬や鼻の肉が腐り骨がむき出しになり、まるで骸骨の様になって目だけがかすかに光っておりました。「勉ちゃん。大変な目にあったね。」と言ふのが精いっぱいでした。「おばちゃんおくれてよかったね」と一言。四日後に息子さんは亡くなりました。近くで治療を受けていた娘さんも顔から胸、肩、手など大火傷で「水ちょうだい」をくり返しておられ、もう少し辛抱してとお母さんも必死でした。いつまで待てばいいの、水がほしいと言い乍ら二日後に亡くなられたと聞いた時、どうせ亡くなるのなら水を呑ませて上ればよかったのにと可哀想で仕方ありませんでした。私共も時間におくれなかったら丁度家に着いて汗をぬぐっていた時間です。せまい道路をへだてた向かいが姉の家でした。中学五年だった姉の次男が血だらけになり二階からおりて来ました。姉は自分の家に直撃を受けたと思い一人で近くの外科医に行かせそのまま行方不明、姉は気が狂った様に探し廻り四日目に宇品の救護所で以島へ送られる寸前に見つかりました。以島へは重傷者ばかり送りほとんどの方が亡くなりました。その次男も江田島の友人のところで七日後に亡くなりました。姉の末っ子も広島市立高等女学校の一年生でしたが学徒動員で作業中被爆し遺体が見つかりませんでいた。主人も出勤途中被爆し亡くなり、健康で明るく幸せだった姉の家族も一瞬にして壊されてしまいました。

 

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