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野田 功(のだ つとむ) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2002年 
被爆場所 広島陸軍被服支廠(広島市出汐町[現:広島市南区出汐二丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 広島陸軍被服支廠 出雲出張所 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館様

同封の通り原子爆弾死没者の登録申込書六通を送付致します。何卒宜敷くお願い致します。

写真を整理し、この申込書を書きながら、あの日の事が思い出され、胸を痛めます。申込書に添付した写真についても、母かずみが、原爆の惨事を予測していたのか、あの半月前に私に家族皆の写真を一枚ずつ持っておくようにと云って、持たして呉れたものです。従ってこの写真一枚一枚に非常な思いが私にはあります。

実は私は当時、広島陸軍被服支廠に勤めており、あの年昭和二〇年の二月に同廠の出雲出張所に転勤になり、出雲市に赴任しておりました。

そして広島へは度々出張で帰広しており、広島に初めて爆弾が投下された四月三〇日にも、帰広中で、又呉がやられた時にも広島にいました。

そうした戦局の中で母が、今にして思へば「虫の知らせ」と云うのか私に、先がどうなるのか分からないので家族の写真を持っておく様にと云って、私に持たせて呉れた写真です。勿論、私の当時出雲で写した写真を母に渡し、お互にどうなっても、誰かが皆の写真を持っておれば、何かの時に、お互いが思い出すことが出来ると云う思いでした。

そしてあの八月六日にも、出張で広島におり、皆と朝食を共にし、これが最期の別れとは夢にも思はず、午前七時に家を出て、電車に乗るつもりで、十日市電停に行きましたが、乗車待ちが長蛇の列で、私は電車に乗るのを止めて歩くことにしました。

相生橋を渡り、あの産業奨励館(今の原爆ドーム)の横を通り、本通りを通り、広島電話局の前を通り、比治山橋を渡って、広島陸軍被服支廠に八時頃到着し、そして上司に、出張で、来広した申告をする為に、事務所の中を移動している時に、あの特異な閃光を感じました。

そして、あの閃光が、青いと云うか、何かただの光ではなく、異状な爆発の光と直感し、直ちにそばの机の下に入りました。

間もなく、非常に凄まじい轟音と建物が崩れるのではないかと思はれる程の激しい揺れがありました。この轟音と激しい揺れは三度程感じました。そして周囲は真暗になり、一寸先も見えない状態になって、しばらくの間もの音一つしない、静寂そのものの時間がありました。

そのうちに、少しずつ明るさが戻ってきて、向うの方で、かすかに人影が小走りに出口の方へ向って行くのが見えだして、私も出口の方へ行きました。

その時居った、建物は現存しているあの大きな倉庫の二階に居りました。広島陸軍被服支廠も、戦禍をさける為、廠内の工場部門・倉庫部門は疎開し、木造建物は全部取り壊して、残っていたのは、現存している四つの倉庫で、その一番北側にある倉庫(当時一三番庫と云っていました)を事務所として使用しており、その二階に居ました。

従って、あの時には明り取りの天窓の針金の網入りガラス(厚さが一・五センチメートル以上あったのではないでしょうか)が、粉々になって落下しており、私がもしあの時す早く机の下に入っていなかったら怪我の一つや二つはしていたかもしれませんが、机の下に居た事で全く無事でした。

外に出て、しばらくは、この近くで何か異変が起ったものと思っていましたが、少しはなれた比治山の向うの方から煙が上っているのが見えだして、これは爆弾であったかと思うようになりました。

そうしているうちに、怪我をした近くの人達が、手当を求めて、被服廠に来るようになり、時間と共に、段々と遠くの人達も救援、手当を求めて来るようになって、段々と広島の中心部の被害状況が分かるようになってきました。救助、手当を求めて来る人達の姿は、あの原爆資料館にあるボロボロの服装の人が多く、また顔は黒くなり、しかも血の気のなくなった青白い肌になり、手の皮がはがれて、その皮膚がたれ下がった状態で、手を下げてやって来る人も多くさんいました。

私もテントを張るなどの手伝いをしたりして、救援活動をしていましたが、午後三時頃に被服廠を出て皆実町電停に向って行きました。

この付近の家は相当な被害を受けていましたが、倒れたものは無かった様でした。が、御幸橋を渡り千田町に入ると様相は極端に悪くなり、電車通りを北進しましたが、馬の倒れているもの、水を求めて声を出している人、建物は焼けてまだ炎を上げており、阿鼻叫喚の地獄図そのものでした。

鷹野橋まで来て、本来なら電車通りを紙屋町方面へと行くのが本当ですが、あの時のひどい様相から、どうしても紙屋町方面へは行けず、明治橋-住吉橋を渡って、舟入に出て電車の江波線を北上しました。

舟入を通る時に、何んだか道路に水溜りがあったりして、濡れている様で水道管が破れたのかと思いましたが、これが「黒い雨」が降ったあとの水溜りであったのですね。

そして十日市の電停まで来て、我が家の方を見ましたが、建物など全くなく一面ただ焼け跡の炎だけでした。

そこに親、弟、姉が焼死しているとは少しも思はず、何処かに避難しているものと思い、子供の頃よく遊びに行った、西の方、中広町から山手町の方へ、また川原など探して歩きました。

多くの人が川原の方へ避難していましたが、家族には会えず、又近所の人にも全く会えませんでした。(後日分かったのですが、我が家の町内の避難先は古市の先の緑井でした。)

出張の日程が切れるので、いずれ再会出来ると思い、広島駅に向いました。三篠の鉄橋を渡り白島に出て、そのまま線路を歩きました。白島の鉄道線路は土盛りの高架になっており、市内が一望できましたが、建物など全くなく、広島城も見えませんでした。市内はただ火の海の状態でした。そのまま線路に添って広島駅方面へ向い猿猴川にかかる鉄橋まで来ると、鉄橋に汽車が倒れており、鉄橋が通れないので、下の常盤橋を渡り二葉の里まで来ました。

その時広島駅は炎につつまれ、さかんに燃えていました。

芸備線の矢賀駅から汽車が出ると云う情報を聞き、矢賀駅に行き、最終便と云う、備後十日市行に乗車し、当夜は三次の小学校に泊り、翌日任地の出雲へ帰りました。

八月一五日終戦になり、翌一六日に終戦処理の連絡の為、広島に出張・・・・・・広島の仁保町の親戚に行きました。親戚には唯一人妹芳子だけが生き残っており、芳子から他は皆当日、焼死したことを聞きました。妹芳子は左手首に怪我をしていました。

一七日には被服廠で仕事をして一八日焼跡に行きました。

妹芳子から聞いた通り、焼け跡には
 父 植は近所の葬式があり、そこに行っており、遺体は不明ですが、
 母 かずみ
 弟 明
 妹 隆子
 弟 武
この四人の遺体は半焼けの状態であったので、取れるところの骨は少し取って遺体はどうすることも出来ず、そのままにして帰りました。

丁度、隣家の武田家からも遺骨を拾いに来ており、おばさんと、娘さんの二人が亡くなっていました。

遺骨を拾って親戚まで帰ると妹芳子は、それまで何んとか救護所になっている楠那小学校に怪我の治療に行っていましたが、僕に会って安心したのか、もう体力の限界になっていたのか、楠那小学校の講堂に寝かされており、動けなくなって、そのまま楠那小学校に収容されました。

私は妹の怪我は左手首だけで、まさか原爆症で後日まもなく死ぬるとは思っていなかったので、再会出来るものと信じ、一九日に出雲へ帰りました。

その後、出雲出張所も従業員は解散、帰郷し、残務整理に入り、連絡の為、二六日に広島へ帰り、芳子が二三日の朝大河小学校で死亡し、火葬したと遺骨を親戚が見せてくれました。

死因は原爆症で、斑点が出たり、髪が抜けたりしたとの事でした。

手許にある残された写真を見る度に、これらの事が思い出されます。妹芳子は親弟妹など家族のあの時の状態を僕に伝える為に少しの間生き残って呉れたものと思い、非常にいとしいです。

以上思い出すままに当時の事を長々と書きました。宜敷くお願い致します。

平成一四年一一月五日   野田 功
                       

 

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