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被爆後の救助にあたっての記 
野村 洋子(のむら ようこ) 
性別 女性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(間接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

みなさん今日は。

只今、御紹介にあづかりました野村でごさいます。

私の父は高陽中学校の開校以来、ずっと校医をしておりました。

その学校でみなさんに私が、今日原子爆弾による被爆後の救助のおはなしを致しますのも、何か目にみえぬ糸にひかれているような気が致します。

本日みなさんに私のつたない経験をおはなしするにあたりまして、一言御了承やらお願いがございます。

今年は被爆五十周年と云う節目の年に当り、広島や長崎はもとより各地での核反対とか、又は核の是非についての議論がさかんに行われております。

私は今年そろそろ七十才にならうとしております一介の家庭の主婦です。

学校の先生方のように、演壇に立ちまして大勢の方々の前でお話しをした事なぞ一度もありません。まして五十年と云う歳月がたっています。

その私に何故白羽の矢がたちましたのか分りません。人間も五十年も月日が経ちますと、かなり忘れてしまう事も多いと思います。

私のおはなし致します事が、あの時の惨状の一〇分の1、いえもしくは一〇〇分の一もみなさまに届かぬかもしれません。何となればあのようなおそろしい体験は、実際に身をもって受けたものでなければ分るはずがありません。

私も人類はじまって以来と云う原子爆弾の洗礼をうけた者としまして、何か後世に云い伝へておかねばと気持だけはいっぱいあります。

しかし何分にもこのように大勢の方の前で、おはなし致しますのははじめての事で御ざいます。

それに半世紀と云う歳月をへた昔の事を、思い出しながらおはなしするのですから、多少ぬけている所もあると思います。まずこの点ご了承下さい。

しかしこれからの世界に核はおろか、いかなる戦争も決してしてはならないと云う決心を、貴方々に身にしみて知って頂きたいのです。

私のおはなしする事は面白い話しではありません。しかし、しっかりきいてほしいのです。それは誰の為でもありません。これからの時代を荷なって、日本を平和に守って行く貴方々の為です。これがお願いです。

昭和二十年八月六日、それはそれはぬけるように青い、そしてやけつくように暑い朝をむかえました。私の家は父が医者で医院を開業していました。当時、一人の住みこみの看護婦さんがおりました。

午前八時頃、医院の待合室の方にはもう五、六人の患者さんが来て、診察をうける為にまっていらっしゃいました。

所はこの深川です。今の小学校の東隣に家がありました。私は十九才。それまで学校を卒業して家に居り、父の仕事の手伝いなぞ一度もした事はありませんでした。両親と私で家族は三人、それに住みこみの看護婦さん一人の計四人です。

丁度八時すぎ、私は裏庭へ出ていました。そして八時十五分、青いような白いようなピカットした異様な光をみたのです。アラ、雷かしらとちょっと思いました。

そうして数秒位たっていましたかよく分りませんが、ものすごいドカンと云う音。

部屋中の襖や障子がみなはずれて倒れました。硝子戸も倒れガラスが粉々になってとびちりました。

何だらう、家族も近所の人もこの一言です。本当に何だらう、自分の家にだけ爆弾でもおちたのかと思いました。

たまたま庭に出ていた私の左腕が、海水浴で日にやけたように真赤になって来ました。ノースリーブの服で丁度左腕が広島市内の方にむいていたのです。

広島の爆心地から直線距離にして十二、三キロ、こんなに離れた地方でも非常に強い光線であったのです。又爆風もものすごい力でした。それにもまして一番恐しいのは放射能の力なのです。

まもなく広島方面の空に異様な見た事もないキノコ型の大きな雲がのぼりました。見た事もないとてもきれいな色です。あれだけの大惨事をもたらした原爆の出した雲を美しいと云いますのは、まことに不遜な事ですが本当でした。そして、その爆弾から出ました小さな落下傘が可部方面へユラリユラリと降りてゆきました。

やがて九時半でしたか、可部警察署より父に救護隊としての出勤命令が出まして十時すぎ自転車で可部にむかいました。

父の留守中は診察は出来ませんから、看護婦さんに今日は臨時休みねと云いながら玄関のドアをしめようとした十二時頃、全身大火傷の水ぶくれの人がやって来ました。

これが私の見た原子爆弾被災者の第一号さんなのです。これからのお話しが救護に関する私に与へられた題目でして、今までは少し余分であったかもしれません。

全身真黒です。焼けて皮がだらりとたれ下った所もあります。着ていたであらう衣服は何もなく、わずか腰のまわりに布を少しつけて、頭の毛もチリチリ、足ははだし、大きな水ぶくれ、この世に何故こんな人がと合点がゆかず、その人もやっと着いた私の家で倒れこんで口もきけず、いくら父がるすだから診察は出来ぬと云ってもほっておくわけにもゆかず、看護婦さんと二人で治療をし出しました。

その時これから毎日々々、延人数にすれば何千、いや万をこすかもしれない人達の救護をするようになるとは、夢にも思いませんでした。

はじめは火傷をした人はこの人位だらうと、丁寧に水ぶくれの水をぬきコーヤクをぬって包帯をして、所が全身ですからコーヤクも包帯も沢山いります。その治療がまだ出来ぬ内に次々と怪我をした人、火傷をした人、頭が裂けてポッカリと頭蓋骨までみえている人、全身にガラスが喰いこんだ人、ぞくぞくです。

その頃広島市内では空襲をうけて被災したら、何町は深川、何町は口田とか大体避難する場所の振り当があったようです。

昭和二十年頃は医者の数も少く、この地方では父が一人でした。父はその時四十六才でしたが、もっと若いお医者さんは軍医として召集をうけ無医村が多かったのです。

当時この近くへ疎開しておられた歯科の技工士さんにも手伝ってもらって、看護婦さんと三人で一生懸命治療しました。

一方可部へ動員された父達医療班は、救護隊を作ってトラックで横川まで入市したさうですが、あまりの火の勢の強さに市中へ入る事が出来ず、引き返して可部の救護所で治療をしたさうです。

父は家の事や又、深川方面へ怪我人が来てはいないかと心配になり、度々警察の人に深川方面の状況を聞いてほしいと頼んださうですが、医者を一人でも手放したくない可部警察は、深川方面異状なし、とくり返すだけで父がその六日に帰宅したのは真夜中の十二時頃でした。

その頃はもう被災して怪我をした人がいっぱい、私の家は無論の事、当時の深川村役場としては早速小学校の教室を救護所として、何百人と云う人を収容しました。

しかし当時の戦争中の物資の何もない時、教室に敷くおふとんもありません。ゴザを何とか農家から出してもらって教室へ敷き、大火傷をした人も大怪我をした人も足のふみ場もない程のつめこみようで、寝返りも打てないような状態でした。

さてそれから父を中心とした深川の救護隊が結成され、役場の人々を中心に地元の人々、婦人会の人達の手伝いによって被災者の治療並びに援助がはじまったのです。

当時収容された人員は何人位だったかとよくきかれますが、本当の所はっきりとした人数は分りません。数えた事なぞありませんから、只々火傷とか傷の手当てにばかり一生懸命だったからです。

全身火傷をうけてさっきまで何とか息をしていたと思っていた人が十分位してみるともう亡くなっている。朝は少しは声を出して痛い痛いとかぼそく訴えていた人が、もうお昼には亡くなって教室から運び出される。

一日に五、六人は亡くなって地元の消防の方々が焼却場も一っぱいで、焼場とか河原の方で日夜焼いておられたと思います。

小さな子供も親と散々になり何所の誰かも分らず名前も知らずに死んで行く、こんな悲しい毎日でした。

火傷の傷の所へは膿がたまります。私がいままでかいだ事もないくさいくさい膿のにおいです。火傷の傷口へベットリと云いますかゴッソリと云いますか真黄色のぶ厚い膿がたまるのです。それをピンセットでとります。血がふき出るのです。痛い痛いとみんな泣きます。

膿をとったあとへ薬をぬります。当時は殆んど赤チンです。今は水銀を含有しているとかで赤チンの使用はありませんが、あの当時は赤チンです。私の家には当時召集をうけて出征した薬屋さんから沢山の薬品類を買っておりましたが、一日に何百人と云う人の治療をするのですから、すぐくすりもなくなります。

夜おそくまで治療をすまし、と云っても八月十五日の終戦の日まではまだ夜、灯をつけられません。敵の空襲に備えて灯火管制と云って夜は真暗にしておかねばならないのです。家の窓と云う窓に黒い布とか紙を張って一筋の光ももれないようにしていたのです。

そのように痛い治療をすまして翌日救護所へ行ってみますと、昨日取りのぞいた膿のあとへ又ベットリと膿がたまっているのです。今まで見た事もない経験のない火傷です。又ピンセットで膿をとる、血がふき出る。痛い痛いと日毎に弱って死んで行く被爆者、そのくり返しの毎日です。

食べる物とて地元の方々や婦人会の人々の厚意による炊き出しですが、暑い時でもありますし、それに体がくるしくて食べられません。誰一人として面倒をみてくれる人もありません。さみしく死んで行くのです。

被災者の内で割合に怪我も火傷も軽く少しは動けていた人が、突然便に血がまじり下痢をし、めまいをし次々と元気がなくなり亡くなって行き出したのです。

火傷のひどい人が亡くなる、怪我のひどい人が亡くなる、これは当り前の事としましても、割合軽くて元気な人がなくなるとは、原爆の事は何も分らないのです。放射能の事も何も分らないのです。

その内、父も私も便に血がまじり下痢をするようになりました。歯ぐきから出血するようになり、全身皮ふに小豆位の赤い斑点が出来、ついに髪の毛までぬけて来ました。

それでもそんなにおそろしい放射能と云う事なぞ分りません。又その沢山の被災者を治療するのに夜もろくろくねむらずの毎日だったわけです。

毎日亡くなられる人もあり救護所の被災者も日々人数は少くなりましたが、大変な毎日でした。

原子爆弾の故で、広島長崎は癌の発生率が高いと云われます。

私の父も胃癌の大きな手術をしました。私も二度も腫陽で開腹の手術をしました。その時手伝ってくれた姉も膵臓癌でアット云う間に亡くなりました。原子爆弾とはこんなにおそろしいものなのです。

テレビで数年前湾岸戦争をみて、まるで映画でもみているようにカッコいいとか、面白いとか云っていた人もいます。チェルノブイリのあのいたましい子供達をみて、人事のように思っている人もいるかもしれません。

しかしこの地球上には多数の核爆弾があります。そしてそれを使うのは人間なのです。いかなる戦争もしてはいけません。戦争は人を殺すのです。

可愛い子供や両親、奥さんを残して戦地へ行き、帰って来られないのです。前途のある若い人がどれだけ亡くなってしまったか、私達戦争の時代を経験した者には、声の限り戦争反対を叫びたいのです。

被爆者の方々の個々の状態は、いくら話してもはなし足りない程、悲惨な事ばかりです。

決して二度とこのような爆弾が使われたり、戦争をおこさないように、これからの時代を荷なって行かれるみなさんの手に平和が握られているのです。

必ず世界平和の為にがんばって下さる事を切に願いまして、私のつたない体験のおはなしを終ります。御静聴感謝致します。

 

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