広島工専三年の時、学徒動員で、爆心地から二・三キロメートル地点の化学工場の変電室内の窓の所で被爆し、顔、首を火傷しました。その時の熱は顔を瞬時に焼き、痛さに思わず「ワーッ」と叫び、床に伏しました。同室にいた中二の生徒は、六メートルも爆風に吹き飛ばされ、瓦礫の下敷になり、引きずり出したら、顔、目、口、鼻、腹はベロベロに区別つかない様になっていました。工場中の全ての家は倒壊し、通路は瓦礫の山となり、その上を歩きました。又、ハンダゴテで航空機の酸素発生筒を作る工場でしたので、コークスの火が倒壊した家に燃え広がり、工場内は大火事になりました。工場の門の所に衛生室があり、そこに行くと、工場内の人がぞくぞくと集っていました。約三〇〇〇人の労働者、皆、一様に、血と埃で真黒、真赤になっていました。火傷の人、切傷の人、死んだ人、それはこの世の様とは思われない惨状でした。私は余りに顔がヒリヒリするので、倉庫に火焔の中をくぐり抜けて行き、亜鉛華とアマニン油で湿布火傷薬を作り、顔にベラベラ手で塗りましたら痛みが引いたので、■に二つ作り、衛生室の所に運び、「火傷の薬だよ」と呼ぶと、火傷の人が競って、つけました。足りないので、又、倉庫にとりに行きました。目の前に電話室のオバさんが硝子が頭から背中にかけて一杯つきささっていたので、抜いてあげたら、首の所から血が「ピュー」と吹き飛んだので、袖を破って、押えさせ、止血しました。一友人が二階の電話室の倒壊の中から助けを求めていたので、梃を使って、中に押し入り、友を見つけたが、足が柱にはさまれて逃げられないので、再び梃を使って、柱を持ち上げようとしたがビクともしないで困ってしまったら、彼が「足が抜けてもよいから、引張って助けてくれ」と泣き叫ぶので、脇腹をかかえ「グイグイ」引張ったら、抜けたが、足のくる節の骨が白く見え、血がにじんだ。タオルでしばり、彼を担いで、衛生室へ運んだ。都心の病で寝ている友を助けようと、工場の門から一歩外へ出ると、ゆうれいの行列だった。ぞろぞろ、ぞろぞろ、ぞろぞろ、次から次へと何百何千人の人が「痛いヨー」「ウー、ウー」とうめき乍ら、工場の門の前の道路を、太田川の下流の方向へ向って歩いているのに、吃驚した。一団体の通った跡には、必ず、何人かが、倒れて、「水を、水を」と求めていた。焼跡の噴出している水道の所から茶碗に水を入れ、飲ませた。何人も何人も「ゴクン、ゴクン」。そして、ふりかえると死んでいた。
焼跡、死体の上を乗り越え、都心へ向ったが、南大橋の所につくと、空中がチラチラひらめき、僕が行くのをはばんで、引き返した。焼死の中に、母が赤ちゃんをダッコした儘、焼けていたので可愛そうと頭をなでたら、ペシャッと崩れて灰になった。私はその後、一ヶ月、病床にあった。二〇年間白血球が二、〇〇〇代、一〇年間一万以上で苦しんだ。今も肝臓癌、食道炎、喘息、腰痛、前立腺、風邪等で五〇年間通院通しである。原爆は廃絶しかない。人間の悪魔だ。
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