私が当時通っていた広島工業専門学校は、当日は夏季臨時授業を行っていた。授業は八時からであったが、少しおくれたので市電を学校前からとびおり、走って学校の中へ、入っていった。
やっと目的の校舎にたどりつき、階段を登ろうとした時であった。あたりが「ピカッ」と光り、しばらくして「ドン」という音がして、ものがくずれる音がした。私は入口の所でうつぶせていた。やがてあたり一面が白いホコリ(霧)のようなものにおほはれていた。私は爆弾が、近くに落ちたものだと思った。しばらくして私は起き上ったが、眼鏡がどこかへ飛んで行き、顔にも軽いキズをうけた。私は強度の近視眼なので、その後のことは、判然と見えないまま行動した。
私の入らうとした校舎はしばらくして、上からおしつぶされるようにしてくづれた。私はとりあえず学校の入口の方へ行った。そこで休んでいると、やがて友達が来た。授業は二階でやっていたので、顔中ガラスの破片で血だらけだった。トラックが来て負傷者をどこかへ運んでいっていた。
その後川の方へ出たが負傷者や元気な人も川下の方へぞろぞろと歩いていっていた。やがて私は自宅の西条町へ帰らうと思い、市電の通りに出て、市電の線路に沿って(途中爆心地に近い所もあった)広島駅前の方に向って歩いていった。通りの両側は一面焼野原でまだ暑く、遠くで「オーイ」と助けを呼ぶような声も聞えてきたが、私にはどうすることも出来なかった。(この焼野原の下では何万人の人が死んでいたのだ)やっと駅前の東練兵場にたどりつき、そこで少し休み、又海田市駅迄歩き、そこから汽車に乗り当時住んでいた西条駅についた。既に夕方に近かったが、母が駅前で立って待っていてくれた。
当日の惨状については、直接私は多く見ることはなかったし、又私は眼鏡がないので(強度の近眼)よくは見えなかった。しかし当日の地獄絵については、後で知りよくも私は生き残ったものだと、神に感謝した。又後遺症も大したこともなかった。
いづれにしてもこのようなことは、二度とあってはいけないことで、今後も世界に核廃絶を叫びつづけたいと思った。(平成七年一一月二五日、国立がんセンター入院中、著す) |