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時の流れに 
重田 千鶴枝(しげた ちずえ) 
性別 女性  被爆時年齢 28歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1947年 
被爆場所  
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月が来ると毎年のように私は思い出す。白い白い何処までも続くコンクリートの白い道、空にはギラギラと灼けつくような真紅な太陽が情け容赦も無く真上からリュックを背負った私を照りつける。

見渡す限りの瓦礫の山が前後左右に広がって居る。人影もほとんど見へない。駅前の的場橋を渡らねば宇品の方へ行かれない。橋は勿論橋桁のみで、四つん這いになって渡らねばどうしようもない。リュックが頭上にかぶさって来る。眼下には川が流れて目もくらむようだ。死にもの狂ひでやっと川を渡り、段原町を過ぎて宇品へ宇品へと誰も黙って歩いた。あるいても、あるいても何時果てるともない白いほこりの灼け道。其処此処にひん曲がった建物や電柱が傾斜したり折れたりまるで地獄のようだ。

宇品の野戦病院に収容されて居るとの情報に寄り辿り着いたのは夕方、でも主人は其処には居らず似島に移動されていた。仕方なくその夜は野戦病院で一泊させて貰い、翌朝の船で似の島へ行く事に。夜は固いベッドの上で相変ず灯火管制、アメリカ艦載機は夜も昼も広島の上空に・・・・。闇の中で眠る事も出来ず、明日のなりゆきを・・・・。一睡も出来ず。

翌朝宇品の港より小舟に乗り似の島へ。

波がギラギラ光って妙に他人めいて誰も彼も無口で、無表情に一点を見つめたまま舟に身を任せて居た。やがて波止場が見へて来た。海に突き出て居る防波堤の上にむしろをかけた積荷のような物がうず高く見へて来た。

陸に上り、思わず気になるので、そっとむしろの端をめくって見た。人だ、裸の焼けただれた人間がまるで材木を積んだように重ねて積まれて居た。嗚呼、何とゆう惨たらしい地獄だ。夢ではないのか。まさか此の中に主人が・・・・。そんな事ある筈がない。嘘だ。

私達は案内人に導かれて島中の建物の一つ一つを廻って主人を探す事にした。

初めて入った大きな建物の中に一歩入ったのは、ほとんど民間人の怪我人の方達でいっぱい。すべての人達が焼けただれてヒフが垂れさがり髪がなくなって丸坊主に成ったり、うめき声と叫び声と泣きわめく人で思わず立ちすくんで仕舞った。でも主人を見つけなくては・・・。とそんな人々の間を縫って彼をさがした。

でも見つからない。又次の建物へ、まだまだ・・・、彼らしい人に出会へず・・・。私は苦しかった。まさか・・・、あの防波堤の積荷のような中に彼も居るのでは。直ぐにでも飛んでいって一つ一つめくって見たかった。結局最後の小高い場所の建物に・・・。其処は伝染病患者が収容されている場所で立入り禁止で入室は許されず。

私達四名は途方にくれた。でも何んとかして見つけねば・・・。又気を取りなおして残りの講堂のような建物に入った。

部屋の中はとても広くて板の間の壁ぎわと窓ぎわの両側に、半分裸姿の男達がズラリと枕を並べて、寝た人、起きて座っている人、うつ伏せになった人、勿論何かうめいている人、バタバタして苦しんでいる人・・・。一人一人顔を覗き込んで探していくと・・・、輝男さんが・・・、座ってうずくまるような姿で。呀!!、とうとう生きていた、見つかった。思わず三人で・・・、何を言ったか、何を叫んだか、言葉にならず泣いてしまった。

全身に、特に背中中にガラスの破片が刺さり、左腕には弾の傷跡、右の耳が半分ちぎれたように成って、結局体中傷だらけで、仰向けになる事も、左右横に眠る事も出来ずうつ向いて眠るより外なく傷の痛みと昼夜眠る事も出来ず一週間の時間が過ぎていた。

千切れたような軍服を、持って行った浴衣に着替へるように言っても、彼は軍人だから「私服は着る事は出来ない」と言って、私の持って行ったお茶を喜んで呑んでいた。

そして私が座って膝の上に私の両手を重ねたその上に自分の額を載せて少し眠る状態をつづけた形に。僅かでも眠れたかどうか、ほんのむなしい時間が過ぎた。

八月十一日十二日十三日十四日、私一人似島に残って看護兵さんがガラスの破片を少しずつ取り除く作業を・・・・。彼は痛みの中で声も出さずじっと堪えていた。そして私に「顔に傷が無いからそれだけはよかった」

「家に帰っても大丈夫だ」と・・・・。出血多量の体でその時は元気に成って庄原に帰へられるとばかり思っていた自分が一人よがりのほんとに初心な考へだったと、今にして思へば残念で口惜しくて、最後迄毅然として居た彼が軍人としてのプライドを少しも崩さず・・・・。彼もA型私もA型、普通だったら輸血も出来て充分な手当も出来たであろうに。

相変らず米軍の飛行機は昼夜広島の上空に。夜は真暗な闇の中で苦しまぎれのうめき声が其処かしこより聞へて来る。

そして忘れる事の出来ないのは、夜明け近く向ふ側に並んで眠っていた兵隊さんの一人がうめき乍ら仰向けになり、板の間の中央ににじり出て「お母さん、お母さん」と叫んでそのまま息絶えて仕舞われた事。板の間に失禁して両手を拡げて半裸の姿で。私はその時思った。こうして一人又一人亡く成って行くのでは・・・。此の次は誰が・・・こんな状態の中で・・・・。結局そんな思いの乱れた思の中で、その次は外ならぬ輝男さんだった。

八月十四日午後十二時すぎトイレに行く彼を支え乍ら暗い中、用を足して廊下に出た途端思わずよろめいて一・八メートルの彼を支え切れずそのまま倒れ、大声で看護兵さんを呼んで元の場所に・・・・。でも若う貧血状態の彼は二度と瞳を明けなかった。

明けて八月十五日七時すぎ「陛下の玉音放送」が流れ・・・・。部屋中に泣き声が溢れた。私は持参のシルクの単衣を破れた軍服と着替へ体中をアルコールと脱脂綿でキレイに拭き静かに冷たくなり今は痛みも何も無くなった彼の体を、あの日から始めて十日振りに仰向けてゆっくりと眠らせた。

看護兵さん曰く「奥さん、重田君は敗戦の事も知らず勝利を信じ逝かれた事はかへって倖だった。僕らは今から何をどんな風に生きて行けば好いのか真暗な心境だ。そしてお骨になり奥さんと一緒に古里に帰へられるのだ。そう思って元気を出して帰って下さい」

八月十五日、真夏の太陽は燃々と頭上に。そして瀬戸の海は事もなくギラギラと小舟に打ち寄せる。お骨を胸に放心状態の私は此のまま彼と一緒に・・・ざぶんと海に飛び込めばどんなに、いともたやすい事だ。その時ふっと古里の父母の姿が・・・。嗚呼・・・。

帰らねば・・・。帰りましょう、古里へ・・・・。

輝男さん三十三才、私は二十八才・・・。

五つ違いの彼と私の人生、そして十年間の結婚生活。十八才で彼に嫁ぎ嫁として姑に仕え西も東もまるで少女のままの私にはすべてが苦しみの連続だった。そして三ヶ月余りで病気になり肺を悪くして・・・・。彼は若う私に農業は無理だと警察官に・・・・。十年間の都会生活が・・・・。八月十五日は私達の結婚記念日、そして予期せぬ十年目の記念日が彼の忌日、最後の旅立ちの日になろうとは、嗚呼・・・・。運命とは片付けたく無い。

すべては「なりゆき」なのか・・・・戦争の・・・・。嗚呼夢だみんな、みんな夢だ、帰りましょう、何も考えずに。帰へりましょう古里へ。輝男さん一緒に帰りましょう。

 みやうちへ、古里へ・・・・

                        千鶴枝記

昭和二十年八月六日広島にアメリカとの戦争下原子爆弾投下され広島は火の海となり、ほとんど焼野原となる。八月十日私は父母と井上優一さん(組合の何時もお世話なさる方)四名で庄原より主人をたずねて広島に出て行き駅に到着して下車、駅より市街へ出た途端目前の光景に声も出ず立ちすくんで仕舞った。

その一歩より始まった私の頭に浮かんだままを当時の状景を改めて読み返へす。

  なん年と言ふはやすけれ原爆忌

  歳古れど昨日のごとし原爆忌

  八月十五日ドーム語らず雲流る
  

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