被爆当時私は小学校五年生の十一才でした。両足に火傷を負い約一ヶ月ばかりの野戦病院生活の後、全身に火傷を負い苦しみながら亡くなった母の遺骨とそれぞれに負傷した父姉と母の田舎へ身を寄せました。その後体力を回復した父が広島へ行ったのです。その目的は当時平塚町(爆心より千五百メートル)で理髪店だった私の家では空襲に備えバリカンとか刃物や砥石その他米や塩等を庭にカメを埋めその中に毎晩入れていたのでそれを掘り出しに行ったのです。砥石も割れその他のものもなに一つ役立つものはなかったそうです。広島から帰って来た父が私たち姉弟を前に涙を流しながら話してくれた話しを思い出します。母さんは亡くなったけど五人家族で四人も生き残ったのだから・・・・・広島へ行っていろいろ聞いてみるとひどい人がいっぱいいるよ。山田のおぢさんと焼跡で逢ったけど元家があったところでおばさんと二人でおかゆを供え線香を立て手を合せて居られたので誰れが亡くなったのと聞いたら二人共泣き出して「二人の男の子が壊れた家の木の下敷きになって、お父さんお母さん助けて、と云うのを一生懸命二人で助けてやろうと必死で頑張ったけど火が燃えて来てとうとう助けてやることができず、二人が逃げようとすると子供達が、お父さん熱いよ、お母さん熱いよ、と云うて、しまいにはお父さんの馬鹿、お母さんの馬鹿、と云いましてね、気が狂ったようになった女房をわしが無理矢理つれて逃げたんです。それから火が消えたあとで行ってみたら二人並んで骨になっとりました。どんなに熱かったろうか、どんなに苦しかっただろうかと思うと、子供等はわしらのことをさぞかし鬼の様に思ったでしょう。今思うとなんでいっしょに死んでやらんかったじゃろうかと後悔しとります。今も女房に責められとったところです。子供といっしょに死んでやることが出来んかった云うてね。わしらはこれから一生涯地獄ですよ」と云っていつまでも手を合せとりんさった。わしも涙が出て手を合せたよ。
今は私がこの話しを子供達に聞かせてやる立場になりました。四十年の歳月が経った今でも話しているうちに何度も絶句して涙が出て来るのです。何百分の一しか理解してくれないかもしれません。でもそれでもいい自分の子供にだけでもせめて聞いてほしいと思うのです。やはり私も死ぬまでこの地獄を背負い続けなければならないでしょう。そのことが亡くなった多くの人達への供養になればと思うのです。しかし明日の時代を想うときこれでよいのだろうかあれだけのそしてこれだけの犠牲が無意味なものになりはしないだろうか、戦争のない平和への道のあまりにも遠く険しいことを思うとき無力さと虚脱感を感ぜずには居られません。非常に悲しいことです。しかし世界中の多くの生命を想うとき被爆体験者の一人として又今を生きる人間として、例え無力であっても戦争への警鐘を命ある限り打ち続けることがわれわれの生涯の使命ではないでしょうか。生きることのよろこびを次の世代におくることが最少限度の責任ではないかと思うのです。多くの犠牲者の冥福を祈るとともに平和への願いを心から念じたいのです。核廃絶をお題目のようにくり返し叫びながら 合掌
昭和六十年 竹原市
渡橋甫行 五十才
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