六九年前の八月六日は、私が一九歳の時でした。
その日は、朝から晴天で、すごく暑い日でした。
私は、爆心地から三キロくらいのところに、平屋の一軒家に母と暮らしていました。朝、空襲警報のサイレンが鳴ったので、母と私は押入れの中で待機していましたが、解除になったので、ホッとして母と手を取りあって喜びました。
私は勤務先の銀行に出勤する為、玄関の上り場で、革靴の紐を結んでいると、ピカッと東方から目を射るような、強い強い光が「ぱっ」と、差し込んだと思う間もなく、「ドカン」という腹にひびく様な音がして、同時に真っ黒い煙が黙々と家に入り、真っ暗闇になりました。硝子はものすごい音を立てて割れ、粉々になって吹き飛んできました。
母はちょうど、座敷に立っていたので、背中にガラスの破片が五~六個立ちこんでいました。
私は、しゃがんで靴紐を結んでいたことで、奇跡的に光もガラスも少し受けたくらいでしたので助かりました。もし、立っていたら顔は光とガラスでめちゃくちゃになっていたと思いましたし、また準備が出来て、もし外に出ていたら、全身やけどで死んでいたかもわかりません。
唯、左手で思わず顔を隠しましたので、手首より6センチメートルぐらいのところにガラスが当り、横に6センチメートル位皮膚が切れて、肉がパックリ開いて骨が見えていました。
手で覆ったことで額には傷が付きませんでしたが、出血もひどくてどうすることも出来ず、私は唯々恐ろしくて、「お母さん、お母さん」と大きな声で泣き叫びました。(現在、四センチメートル位の傷口は残っています)
母は気丈な人で、背中にガラスが突き刺さっていることなど気にもしないで、ハダシのまま私の右手をつかまえて、近くのコウリャン畑(モロコシと言って高さ三メートル位の稲科)に連れて行き、「ここを動かないで、じっとしていなさい!」と言うと、急いで近所の家に走って行きました。
母の気丈さと、人の事を気遣う心には、今思い出しても感服します。
私は母のことが心配なのと、恐ろしさに「お母さん、お母さん」と言って泣き叫びました。すると、間もなく、真っ黒い泥のような雨がザーッと夕立の様に降り出して、全身が泥だらけになりました。
みんなは「石油でもないし、何だろう?」と言いました。
しばらくすると、少し先方にある大きなお屋敷が火事になり、いろいろなものが燃え上がって、それが降ってきましたが、幸い少し離れていたので、私たちには降りかかりませんでした。
少し離れた所に広い道路が通っているのですが、たくさんの人がぞろぞろと西へ向かって歩いていました。その人々が全員ハダシで、全裸の人が大方で、「手の無い人」「皮膚が新じゃが芋の皮をむいだように、だらりと垂れ下がっている人」「歩けなくて背負われている人」など、全員血だらけで、この世のものとは思えない、地獄絵図以上だと思いました。
その時は、何が起きたのか想像もつかず、全く分かりませんでした。
母が、コウリャン畑に帰ってきましたので、家に帰りました。
家の中はガラスの破片で歩くことも出来ず、取りつくしまもなく呆然として、ただただ立っているばかりでした。
翌日(七日)、母と私は中心地に住んでいる知人を探しに行ったのですが、己斐(こい)の電車駅まで行くと、電車が止まっていて、その電車は鉄骨だけ残っていて、その中に人が五~六人座っていました。
その人たちは、全員、肉が焼け落ちて、骸骨が座わっていました。その姿を見て背筋が寒くなり、ぞっとしました。
私も家を早く出ていたら、あの姿になっていただろうなと思い、生かされている有難さに改めて感謝し、神様とご先祖様に御礼を申し上げました。
それから中心地へ行こうと思い歩いていると、道路の両側に板を並べ、その上に全身包帯を巻いた人がぎっしり並んで寝かされ、その人たちが必死なうめき声で「水をちょうだい!」「水をくれ!」「助けてくれ!」と言って、歩いている母と私の足をつかもうとするのです。かわいそうで涙が出ました。
水を上げると死ぬと言われていたので、水はあげられませんでした。
全員、顔も包帯を巻いているので見分けも尽きません。知人も探すことが出来ませんでした。原爆ドームの近くにある相生橋を渡る時、川面を見ると水は全然見えず、生きている人、死んでいる人が重なり合って、全員身体中がパンパンに腫れて、ハダカの皮膚が紫色、赤色になって、そのむごさは表しようがありません。
川岸の石垣を登っていた人が、登る姿勢のまま真っ黒に焦げて死んでおられました。また、橋の上でも荷車を曳いていた馬が、パンパンに膨れて横たわって死んでいました。
夜になると、小学校の上空は赤い炎がものすごく上っていて、死者を焼くすごい匂いがして、息苦しかったです。聞いた話ですが、兵隊さんがトビ(長い木の柄の先に引っかける金具が付いていて、木材等を引き寄せる道具)で死者を引っ掛けて、校庭で山のように積み上げて石油をかけて焼いたそうです。
昼も夜も焼き通しなので、その臭さは言いようがありませんでした。
三日目(八日)に、母の友人(女性)が、朝訪ねてこられ、その人は全然無傷だったので、抱き合って喜び合いました。ですがその人は、放射能を浴びておられたのか、一週間後に亡くなられました。
また、その日の夕方、母の友人(女性)が来られ、「泊めて頂戴」と細い声でやっと言ったかと思うと、バタンと倒れられたのでビックリして、大急ぎで布団に寝かせて上げると目を閉じたまま眠っていました。
その人の体から悪臭が出て、部屋中息苦しかったです。
特に歯茎から血膿が出て、その臭さは表しようがありませんでした。その人は五日目に亡くなりました。死体を処理してくださる人は誰もいないので、お隣の小父さんに手伝っていただいて、一五〇メートル位先に川土手があるので、そこに穴を掘って、母が火葬にしてあげました。
また、銀行に早く出勤された人は、黒焦げになって亡くなられたそうです。ぴかっと一発、一瞬の間に十何万と言う人がなくなられ、建築物も何もかも解けたり、曲がったり焼けたりするなど、想像もできません。どんなに高熱な物体なのか想像もできません。本当に原爆は恐ろしいものです。
毎年の原爆記念日になるといつもこのことを思い出すのですが、正直思い出すことも恐ろしく、これまでは家族に話すだけでした。私は、今年三月で米寿を迎えました。腰が曲がり始め少しの痛みもあり、週二日のデイサービスでリハビリをし、友達と語り合うことが何よりの楽しみとなっておりますが、これまでに長生きできたこと、また日々生きがいをもって生活できていることに感謝しております。
今年の八月六日に、三女と共に原爆の記念式典をテレビで拝見していた時に、語り部がだんだん少なくなったので、手記を出してもらいたいと報じておられましたので、原爆の恐ろしさを一人でも多くの人に知っていただきたいと思い、気持ちを奮い立たせて、書かせていただきました。
六九年前のその戦慄は、今でも克明に覚えており、忘れることはできません。
二度とそのような事が起こらないように、世界中が平和で楽しく暮らせる様にしなくてはいけません。世界の中でも多くの戦争がいまだ続いております。一日も早く終結し、人々に幸せが参りますように、祈らずにはおれません。
平成二六年八月八日
熱海の自宅にて
|