あの夜、昭和二十年八月六日の夜、その二日前の八月四日に一一歳になったばかりの私は、蚊帳の中で眠っていたが、父母の話し声で目が覚めた。見ると、父母は灯火管制の下、蝋燭の明かりの下で大きなリュックにお米や衣服を詰め込んでいる。何事かと尋ねると、明日の朝一番の汽車で広島へ行く準備をしているとのこと。私は、遂にお父さんも兵隊さんになるのだと思った。翌朝目が覚めた時にはもう父の姿はなかった。スコップと弁当を持って朝早く出かけたと母が言っていた。
母が言うには、昨日、広谷村役場から村長が来られて、「広島が大変なことになったらしい」と話し、警防団長である父に、団員を集めて翌朝一番の汽車で出発するようにという命令が出たとのこと。
今思うに、車もバイクもない時代だから、父は自転車で必死に村内を走り廻ったことだろう。後になって母から聞いたことだが、トマトやキュウリのある者は広島へ持って行くように言われたので、あの日の夜、暗い畑の中で採ったらしい。負傷者の方々に届いただろうか。
ここからは、一週間余りして帰宅した父から聞いたことである。
八月七日の朝、福塩線で福山駅へ、そして、山陽本線で広島へ向かうも西条駅でストップ。それより先は不通となっていたので、仕方なく福山駅へ戻り、福塩線で三次駅へ。そこから芸備線に乗り換え広島へ向かった。しかし向洋駅から先はまたもや不通で、仕方なく向洋駅に降り立った。その時はもう真っ暗闇だった。電気もつかず、駅の構内にはカンテラや蝋燭の明かりがついていた。
父達はやっとのことで駅から外へ出たが、暗くて何も見えないので、いきなりその場で野宿をすることになった。しかし、異様な臭いで眠れなかった。夜が明けてみると、周辺に悲惨な死体が沢山転がっていた。
そして、父達に命令が出たのだが、それは転がっている沢山の死体をリヤカーに積み込んで、向洋の学校の校庭に掘ってある池のように大きな穴へ投げ込むことだった。子どもの死体も多かったようだ。まことにむごいことだ。坊主頭の幼い兄弟が抱き合って防火用水の中で死んでいる姿が目に焼きついて離れないと父が母に話したそうだ。
向洋だけでなく、他の場所にも移動して同じようなことをしたらしい。
父が母に話したことだが、皮膚の垂れ下がった人達が沢山歩いていて、みんな「水をくれ、水をくれ」と訴えていた。
また、場所はどこかわからないが、被爆した人達がいっぱい集まっている学校の入り口に、手足や顔の皮のむけた男の人がいた。その人は目は見えなくなっていたが、父達の声をきいてわかったのか、「わしは広谷村のSじゃ」と告げた。Sさんは近所の人で父の幼な友達だ。原爆が落とされる数日前に広島へ行って被爆されたのだ。Sさんは父達にすがって泣きながら「お前らはわしのようになっちゃあいけんど、気をつけえよ」と言われた。Sさんは、その後、御調の市村の病院まで護送されたが、そこで息をひきとられた。全身を包帯に包まれた姿で。
父は若い頃は陸上をやっていて走るのも速く元気だったが、広島から帰ってきて二ヶ月位経った頃から「しんどい、しんどい」と言うようになり、頭髪が抜け始めた。同じ頃から尿がピンク色になった。更に、年が明けた頃から腹が膨れてきた。同じ広谷村の森信医師(父の同級生)に往診して貰って腹水を抜いた。死ぬ迄に五回位抜いて貰ったが、抜く迄の期間はだんだん縮まっていった。腹水は大きな銅の洗面器に一杯にあふれるほどの量になった。
田んぼの苗代をつくる頃からは、立ち上がることもできなくなり、重篤な状態になった。
そして、遂に昭和二一年七月二一日午後五時、終焉を迎えた。家族七人を残して。満四〇歳だった。当時は二次被爆という認識もなく、病名は肝硬変とつけられた。「忠さんは酒が好きじゃったけえ肝臓をやられたんじゃ」という人もいた。
同行した警防団の人達(村内一五人ときいているが正確には不明)の中では、父の死が最も早かったが、その後、毎年のように一人、また一人というように次々と亡くなられ、一〇年位の間に殆んどの方が亡くなられた。
父の死が入市被爆と認められたのは、三〇年位後のことである。広島へ同行した一員で、当時生存されていた赤毛好男さんが父のことを証明して下さったおかげだと母はよく感謝の思いを話していた。母には、その死亡までわずかだが遺族年金が支給され、貧しい家庭には少しの助けになった。
父の死に戻るが、遺された家族は七人。祖父春吉(六九歳)、祖母ヨシ(六五歳)、姉タカコ(一六歳)、弟慶伍(五歳)、弟徹(三歳)、妹早苗(生後一五日)。
生前の父は、府中家具の塗装業をやっていたので、しばらくは母が受け継いでやっていたがうまくいかず、祖父が備後絣の製造を始めた。
祖父春吉は、備後絣の創始者冨田久三郎の義理の甥(春吉のおばが久三郎の妻)にあたり、若い時は夫婦で冨田家に住み込みで働き、絣の製造や販売に従事していた。私は子どもの頃祖父から、歩いて出雲まで絣を売りに行っていたという話を何度も聞いたことがある。(ちなみに父忠治もその弟の猪三郎も有磨村上有地の冨田家で出生している。)
祖父は一家を養うために一大決心をして古い機械などを買い集めて製造を始めた。今思うと、七〇年近く前の六九歳という年齢はかなりの高齢である。よくやってくれたと思う。そのお陰で一家は何とか暮らしていくことが出来た。私も、高校卒業後祖父を手伝い家業に従事したが、時代の波には勝てず、備後絣は時代遅れとなり昭和三五年頃に廃業した。残念ながら、その際田んぼ三枚を売って借金を返済した。家屋敷だけは何とか残った。
私も既に八〇歳となった。出来ればこの記録を子子孫孫に読み継いでもらい、戦争や原爆のむごさ、理不尽さと平和のありがたさを考えてもらいたいと心より願いつつ筆をおきます。
被爆七〇年 平成二七年一月 福元達郎
(代筆 伊藤早苗)
|