原爆の思いで(新兵三ヶ月間)
今年は戦後六三年、原爆前後の僅かな期間の経験をボケに鞭うって当時を振り返って記憶を辿ってみたい。
在学延期(東京鉄道教習所専門部)が二〇年三月末で卒業は三月半ばであったと思う。しかし待っても、戦線急を告げるこの時期入営通知はこない。
しかし、漸く八月一日広島工兵隊(現在の白島北町)に入営決定。
新兵の教育の厳しさは十分に聞かされており覚悟はしていた、第一日夜はまず「軍人勅諭」が言える者は手を挙げよであった。小生の年代は一応読み書きはまず出来たと思っていた、同時入隊した中には、二歳下の正規入営の者がいた。おそらく推察するに、徴用工とし働らかされ軍事教育は少ししかうけていなかったであろう。言えるはずが無い、古兵か班長かしらないが「言えないものは、一歩前出ろ」、所謂アンパン罰が行われた。(上履で頬の片方を扶ち殴られる罰)一八歳の少年は痛さに泣き崩れた、他にも数人いたと思われたが気の毒で実に見られたものではない。
入隊後は二・三・四・五日の四日間は猛暑の悪条件を除いてはオイチニ、オイチニの基礎訓練で進んで行ったが、訓練が終わると直ちに「古兵殿 脚絆を取らせて頂きます」と年下の若い兵隊の脚絆を解かされた軍隊では一日古くても古兵は古兵。
いよいよ原爆投下八月六日。
当日は朝食後、銃の手入れをした後、予防注射後、連兵休の予定であった銃を手入れのため、食卓の上に並べた途端、「ピカ」と強列な光とつづいて「ドン」・・後に「ピカドン」と呼ぶようになった。
つづいて、瞬間、がらがらと大きな音と共に屋根の瓦が落下しはじめ、室内の窓側に居た兵隊は瞬間に外に飛びだし、数名が落下瓦の下敷きとなり即死。倒れた兵舎の下敷からからどうして這い出たか、外にでて上を見上げた時、同僚が一~三階から多数血だらけでいるのを見て初めて現実のものと気づいた。
次に何処に行くべきか、早くしないとまた空襲にあう、運良く近くに防空壕を見つけ飛び込んだ、中はかなり広く、すでに数人が居た。地上がすれすれに見える小窓から外を見ると、かなりの負傷者が手当てを待っているようだ。
壕内が一番安全と考え、誰もなにも言わない、じっと座ったままで時を待つ。その間、その後、いろいろ問題の元となった例の黒い雨。確かに覚えている、その時は変な雨ぐらいにしか感じなかった。後から考えてみると、空に高く舞い上がった爆風(それは後世よく写真にもでてくるきのこ雲?)に降雨が重なり、所謂「黒い雨」となったかな?この説は六三年前ごろの一兵士の空想である。
壕内に何時間居ただろうか、外の様子も収まったようだ、幾多の戦線を経験したような特務曹長殿が命令でもないが、{そろそろ外に出ようか}との一声で皆んな安心したかのように壕外にとびだした。
それからが大変。工兵隊内の元気な者集まれで、手足背中の皮膚の焼け爛れたまま一列に並んだ多数の負傷者の焼痕に言われるままに油をぬってやる、油が子供の頃から火傷に効くと話には聞いていたが、今塗っている一斗缶の油は本当に効くものか、気休めの応急処置か、当時、機械油につい多少の経験があったので、その匂いが気になっていた。塗られた負傷者はあまり動揺は無いようだ、自分のつまらない心配に終わればいいが。
次の命令は動けない怪我人を仮寮養所(記憶に定かではないが、現在の城北高校か?)まで担架輸送とのこと、外皮の厚い中に稲藁を入れて作られた敷布団の上に平均七〇キロもある怪我人を乗せ、四人で相当距離のある仮寮所まで数回往復した。
このような重労労動はいまだ経験したことはない。夜一〇時頃か、漸く乾パン支給あり。幸い当日は朝飯を摂っていたので持てた。
連日の猛暑の為、兵営の周りの未収容の被爆死者の異臭と死体の腐廃による膨脹で例には悪いが、力士の小錦のような大きさになり、以後の死体運搬には困難する。皮膚が禿げてすべり摘まれないなどなど、死者には気の毒だけどしかたが無かった。
仮の火葬場は工兵吊り橋の向こうの大道路を越えた所にある太田川の中程にかなり大きな面積のある所謂中州の上で火葬が行なわれることになる。材料は爆風で倒れた兵舎の倒木を四角型に適宜ならべ、其の上に交互に死体を重ね氏名の判る方向がとられていたようだ。火葬の終わったある夜、屍衛兵に立哨に命ぜられ、遺骨の管理をやらされた薄気味悪い一夜であった。
思い出の記憶を漏れの無い様にするため、ここらで一応、衣・食・住の順に思いでを記録してみたい。
一・衣
戦闘帽、一つ星の付いた軍服、脚絆、軍靴、靴下、銃剣を
吊り下げるための幅約五~六センチ、厚さ約一・五~二ミ
リ革帯(終戦後は勿論銃、銃剣は取り上げられたので立
哨、外出などのみ着用した)。
二・食
副食が無いのか、魂消たのは連兵場の地下から掘りだされ
た飴色の缶に容れられた牛缶である、出るわ、出るわ、三
度三度、毎日のようであった。
ある朝、炊事担当下士官?から、「今朝の味噌汁の味が変
わっていたのがわかったか、これは昨日まで、この辺をう
ろついていた赤犬を出汁にしたんだ」とご丁寧な説明あり
成るほどと感じた。これに倣って、新兵か数人使役にださ
れ営内にうろついていた大豚を追い回したがついに捕獲で
きずじまい。かつて営内で飼われていた豚らしい、逃げ場
もわからない。
飯は殆ど薄紫色の高粱飯が毎日のようであった。が、たま
に、当時でも中国から内地に農家の肥料として輸入されて
いた大豆粕の塊があったが、その塊を砕き炊き上げた大豆
飯を食べるたびに、田舎育ちの自分には何か耐えられもの
があった。副食に例の牛缶は厭きる程食べさせられたが、
その他の副食を食べた記憶が無い、三ヶ月間にしてもよく
もてたものだ、記憶にはないが何かをたべていたにちがい
ない、多少にしても想い出せない。
一番たのしかった事は、八月末から部隊解散の一〇月まで
の間、二~三回夕食時湯呑一杯の清酒が全員に配給された
時の旨さは未だ忘れられない。
もう一つ、忘れ得ないことがある。広島駅の大広場のど真
ん中に臨時の衛兵所が設けられ、目的は毎日多数の他部隊
の復員兵(勿論海軍や航空隊等)が帰還して来るのをただ監
視するのが立哨目的らしかった。
偶然にも衛兵所の前を通りかかった元の職場(国鉄)の一
人の同僚が偶然にも自分をみつけ、その場は「やあ、互い
に、元気」と言って、別れたが、次の日か定かでないが、
本人が当時としてはとても手に入らないような巻き寿司二
本を工面してもってきてくれた。嬉しくてどうして食べた
か、思い出せない。
残念ながら彼は早死にした、ご冥福をお祈りします。
三・住
場所はどこら辺だった、定かに思い出せないが、流石工兵
隊手のもの、原爆投下翌日、山沿いに沿った少し傾斜面の
ところに、簡単な庇までも付いた仮小屋程度のもが新兵等
の知らないうちに古兵殿等によって作られた。全員の仮寝
所が出来た。時候も良く、毛布一枚でのごろ寝も服役中、
「食」ほどの苦労は無かった。
一・二・三・衣、食、住、については一応完了させ、思いついたら追加します。
部隊の所帯が小さいのか、原爆投下以来それまでの、班組織の再編成も無ければ何も無い。ただ嘗ての班長、上等兵、古兵などのその時々の指示命令で、負傷兵の手当て、爆死者処理、などなど前述した通りであり毎日が多忙というか、日の経つがわからなかった。隊内には新聞は勿論テレビ、ラジオなど世間のことは一切知る由もない。
朝礼的なこともない。だから八月一五日のあの大事な日本降伏の日も何ら報道も知らない、そのうち口コミ等々で敗戦をうすうす知るようになっていたいらくであった。
最近、NHKで報道された当時の内容をみると、原爆投下されてから、ポツダム受託、日本降伏の日、等々決まるまで、降伏か、終戦か、国民への放送は誰がするのか、などなど幾多の難問があった。特に玉音放送は天皇自らでないと日本国内が絶対収集でないとの結論でであったようである。玉音放送は八月一五日全国一勢に放送されたが残念ながら、我々一等卒は勿論営内何処からもきこえてこなかった、八月末ごろかなんとなく他人事のようになって耳に入ってきたような気がする。
次ぎ次ぎと話題が思いだされるが、八月の月末、突然父が面会にきた、入営以来面会に来たのは、次のような悲惨事故の話であった。当時いわゆるお上の命令で広島市近辺の部落町村単位が毎日交代で市内へ義勇隊として派遣されていたようであった。仕事内容は建物疎開と呼ばれていたが、要は敵の空襲時、市内にある空家、その他これらに類するもので火災延焼となるものの破壊撤回が主な仕事であったらしい。当日、不運にも父の部落が義勇隊の出番にあたり、主に隊員は娘さん(自分の姉も含まれていた)が主体となり初老の人間等々で一七五名で出向いたが瞬間全員被爆死、しかも、市内作業場所も掴めないので村内総出で死体探しの毎日ようであった父も可なり憔悴していた。
現在、平和公園の一角に当時爆死した一七五名の石碑が建てられ、各人の氏名が刻銘され、参拝する度に刻銘されている人の顔が浮かんで来た。
原爆手帳について。
現在一部裁判沙汰にもなっている原爆手帳交付について、思い出がある、若い頃は会社の企業保険もあるし、実際私傷病で使うことは皆無と考えて手帳入手には面倒な手続もありそうなので、放置していた。勿論取獲権利のあることは十分知っていた。
不図、四〇歳過ぎたころか? 将来会社定年退職後の健康上ことを何時とはなしに感がへるようになった。万が一、原爆関係の病気でもなったら、などなど心配になる。
そうだ、原爆時代の同年兵は勿論誰一人関係者の氏名の探し様がない。
其のころ(被爆後から一〇月解散までの間)、戦時気分はほとんど無く、近く部隊の解散もあるのでは、ないかとも想像出来る雰囲気であった。
其のころ衛兵当番で立渉中、丁度見習士官が巡回で立ち寄り、衛兵指令下士官と異常の有無について、話が済んだ途端、見習仕官はかっての学校の二年先輩であることに気付いた、見習仕官が去り行くあと、ただちに、下士官に端的に話し、面接の許可を得、ただちに追いかけ、お互いに「元気ですか」程度の話で別れた。
面接から帰り、下士官と話をいろいろしているうちに、学校名の事から、それなら君の学年にこういう名前の生徒が居ただろう、それは自分の息子だよとの事、一時はびっくりしたが、早婚であれば、ありうることだと一人合点した。
この一件が後に大いに役立つことになる。
とゆうのは四五―四六才の頃、将来を考え、原爆健康手帳を獲得しときたいと考えた時、原爆当時から既に二〇数年経過し、当時でさえ、たった三ケ月の新兵生活かつ、毎日の重労働で中間の名前一人さえ記憶に無い。この時前述した場面の人物の、巡回中の見習士官、立渉中の衛兵指令と自分の三人、唯一の頼みは、衛兵指令の息子さんが自分の学校同期である事を鮮明に覚えていたので、早速電話したところ、お父さんはお元気との事、実は原爆健康手帳下附を申請したいので、是非父上の承認印を得たくお願いしたい、県への申請書をお送りするので宜しくお願いします。
間もなく申請書の正確性が証明されたのか直ちに決済になった。
一瞬の出会いこそ奇遇としか思えない。
またここで話がもとに戻るが、見習仕官を見たとき、今はもう戦争は終わっているのだろう、と情けないとゆうか、何とも言えない複雑な気持になった。
当時、学校の配属将校の指導により、当時の甲種幹部候補生の資格を持つ若者は入隊の暁は候補生試験に合格し、見習士官から陸軍将校となるのが夢であった。
その大きな夢が儚くも潰え去った。
原爆の思い出は追加として次に書いていく
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