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被爆の記録 
瀧口 悦子(たきぐち えつこ) 
性別 女性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2014年 
被爆場所 電車 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
瀧口悦子 (旧姓谷山)

大正十四年三月九日生

被爆当日 二〇歳

我が家は広島市水主町二一六番地(現在の加古町)にあり、家の前には幅一間余りの道路が南北に走り、閑静な住宅街でありました。

家の前の道路の向側は河川であって、洗場や小形舟の停舶所もありました。

我が家の左道路側三軒の住宅を経て、更に左側に広島県庁舎・県警本部及び広島県病院等があり、更に左裏には県警本部の武徳殿があって、朝夕警官達が鍛錬されていた掛声が聞こえていました。又裏数メートル離れた所には中島小学校があり、家の右隣からは民家が並び住宅街でありました。

家族構成は、両親と私とが水主町に生活の基盤とし、姉は教師をしていた主人高田健次郎と共に可部町に居住し、兄は大学卒業後、前橋市の播磨造船所に就職することが内定していましたが、昭和十七年十月学徒動員により、広島五師団野砲兵第六部隊に入隊していました。
 
父 谷山源睦 被爆時 六十一歳

昭和十五年、広島県広島東警察署長を退職し、広島市戦時生活部長に就任していました。

原爆投下時の状況は、丁度早朝窓側を背にした部長席に座って、部下からの状況報告を聞いていました。その時、突如異様な閃光があり、父は即座に机の下に潜り込むようにしたところ、強烈な爆風により全身打撲を受け、その際机の角に額を打ちつけ裂傷を受け失神状態となったが、腰かけていた大きな椅子によって、強烈な爆風を受けたにも拘わらず、又窓硝子による傷害を受けることもなく一命を取りとめ、暫くしてゆっくり立ち上がり机の前に居た部下はと思い見たところ、前面の壁に打ち付けられて倒れているので這いながら近づいて見ると顔面は蒼白呼吸は止まり既に死亡していたとのことでした。

父はそれから壊れた窓から市街を見ると家屋はすべて倒壊し、所々に火の手が上がり廃墟の街と化し、その惨状は想像以上のもので、何があったのであろうかと不安で一杯であったといっていました。

その後、生き残った職員と共に隣の公民館の前の池に這入り、避難して落ち着きを戻し、家族の安否を気にしながら本来の職務を遂行のため、救援隊を編成のうえ、先頭に立って指揮を執り救援に活動していたということでした。

家族の動静については、母が最初であり、一時住吉神社に避難していた処を知り、私とは三日目市役所を尋ねて無事を知るところとなり、兄については八月十三日軍から谷山幸壮が、負傷して部隊の仮設兵舎に収容されているとのことが父のもとへすぐに引き取りに来るよう通知があり、家族の者すべての安否が判明したとのことでした。

父は八月十三日市役所を引き上げ、三次市十日市町の母方の親戚世良酒造店に兄が一時休息していた所に行き、兄の最後の水を飲ませることが出来、その後兄の遺体と共に郷里甲奴郡総領町に引き上げ、母と私と共に生活し、昭和二十二年戦後最初の県議会議員選挙において当選し、一期を終えて二期目に挑戦するよう準備していたが、原爆後遺症のため二期目を断念せざるを得ないこととなり、昭和二十六年上下町の住居から広島市皆実町五丁目の自宅に移り生活していたが、兎角病弱であり遂に床につき介護者をつけて、二年八か月間寝たきりとなり、昭和三十四年六月三十日八時四十分、腸が溶解したような粘液便を排出し多量の出血もあり、原爆症により七十五歳の生涯を終えたのであります。

尚、父が亡くなった後、病床のマット及び畳等を整理して見ると、父が寝ていた処等身大にマットや畳はボロボロに朽ちていたことであり、母の時と同様な現象で、それ以上の歳月がたっているにも拘わらず、この様なことに恐怖感を覚えるところであります。

母 谷山アサ 被爆時 五十六歳

この頃父は空襲が厳しくなって、市役所に寝泊まりすることが多く、母と私とが水主の家で生活することが多く、被爆前夜は家の庭に防空壕を掘っていたのでその中で一夜を明かし、朝になって母と共に縁側で休息し、私はやがて宇品に行くため七時母に挨拶をして出て行き、母は原爆投下の時家に居たため家は倒壊し、母はその下敷きとなり助けを求めていたところ、近所で親しくしていた近藤さんに助け出され、直ちに二人で手を取り合い足を引きずりながら、異様な熱気の中を予め避難場所と定められていた住吉神社へ向かう途中五分程度歩いた頃、家の方を振り返って見ると一面火の手が上がっていたとのことです。

若し助け出されなかったなら焼け死んでいたと思い、有難く感謝したことであると母は語っていました。

その後母は舟入町の知人の所に身を寄せていた。五日後の頃、父の生家から父の弟が父の処を尋ね、父と面会のうえ母を黒目の方へ連れて帰ることとし、私と共に舟入の知人の処へ行き、道端に倒れている死体を避けながら、叔父と私が交互に母を背負って、広島駅に辿り着いてみますと、構内には被爆した者達が避難してきて寝ころがり、呻く者、水を求める者、全身傷を負い死の直前のような人、中には傷口から蛆のようなものがついている者様々な患者が居て、その状態は生地獄のような状況でありました。

その後、黒目の叔父の家で生活が始まり、母は次第に食欲もなく冬期でも常に発汗し次第に衰弱し、死を迎える一週間前より床に看き看病も甲斐なく、死の直前からは腸粘膜が腐敗し溶解しているような排泄物をし、苦しい中においても私や父の事を案じながら、昭和二十三年一月十三日午後三時十五分五十八歳の生涯を終えたのであります。

この際、放射線の影響なのか、来ていた衣類や布団等は茶褐色に焼けたように朽ちてボロボロになったことであります。

兄 谷山幸壮 被爆時 二十五歳

昭和二十年八月十三日、野砲兵第六部隊より兄を引き取るよう父のもとへ連絡があり、父は職務上手が離せないので軍にお願いし、母の居る黒目に近い三次市十日市町で親戚の世良酒造店まで運ぶように依頼し、軍は兄を担架に乗せ貨車にて三次市まで送り届けてくれたのであります。

その後、間もなく危篤状態となり、その報に接し直ちに駆けつけてみますと、兄の背中全面に硝子の破片が刺さり、その破片を抜き取った処はザクロを割った傷痕となり寝ることも出来ず苦しんでいました。

水を飲ますにも口周辺は紫色に膨れ上がり、口の中は粘膜がはがれ食べ物を食べることも出来ない状態でありました。

この様な状態であるにも拘わらず、皆の者自分の事は構わずに避難するようにと言う、兄は私どもの事を気にしてくれていました

次第に力がなくなっていく状態なので、父が水を飲ませると一気に飲み、昭和二十年八月十四日十時四十五分、二十五歳の若さで一生を終えました。
 
本人 瀧口悦子(旧姓谷山) 被爆時 二〇歳

高等女学校の生徒達はすべて動員され、私達は女子挺身隊として徴用され、宇品にある船舶輸送司令部運輸部に配属されていました。

昭和二十年八月六日、七時頃水主町の家を母に挨拶をした後、宇品に向かい電車に乗り運輸部に到着し、部屋に入ってみると机や本棚の書類は床に散乱していたので、何があったのかと上司に尋ねますと、広島市内に特殊爆弾が投下されたらしく大変なことのようだと言われ、電車の中であの光と爆音はそれだったのかと思いました。間もなく運輸部の方へ見る影もない患者が次から次へと運ばれ、船に乗せて似島に運ばれて行っていました。

私どもはこれらの看護のため似島に派遣され患者の看護に当たることになりました。

救護所は兵舎の中にゴザを敷かれ、その上に患者は横たわっているが、半ば裸体のままの者が多く全身傷だらけで焼けた皮膚はボロ片のように垂れ下がり、見る影もなく痛々しい姿であり、患者達は水をくれと訴えているが、与えるも死期を早める為禁じられていたので与えることも出来なかったのであります。

一人水を与えた者がいました。それは学生が水を下さい下さいと言い、可哀想で痛々しさに水を与えようとすると、口の位置が傷つきどこから与えたらよいか判らない程傷ついており、この状態をみて泣けて仕方がなかったことを思いうかべております。

むしろすべての人々に死の直前で水を十分与えてやれば良かったと今にして思っています。

兵舎の裏では、死体焼却として死者を焼却していたが、トタンを覆って焼却している臭気は異常なものであった記憶があります。

三日目となり上官より、お父様が市役所で避難する人達に食糧配給のため、陣頭に立って活動しておられるので、すぐにお父様に会いに行けと言われ、炎天下の異様な熱気の中を宇品から市役所まで、はやる気持ちを抑えながら電車道を歩いて行くとき、道の周辺には難を逃れようとして、道端に横たわり死んでいる者達で一杯であり、その状態は頭から全身焼きただれ傷ついて横たわり恨めしそうな顔をしている者、頭が無くなっている赤ちゃんを抱いて死んでいる母親、死んだ子供を背負って大声で走っている母親の姿、目を覆うような状態でありました。

黒こげに焼けた電車の中には、数人の人達が焼け死んでいる様子であり、私も電車で通っていたのにと思うと身震いがしたものです。

やがて鷹の橋方面に来て日赤病院の処では、死体を焼却し異臭を放っていた。このような惨状の中を歩き、やがて市役所に到着しますと、正面で市民に食糧を手渡している父の姿をみると、頭には包帯を巻き破れたズボンで膝に負傷している様子、その父に会い暫く声も出ず抱き合い涙して生きていたことを喜び合い、母の様子を聞くと舟入町の知人の家にお世話になってその後母を総領町へ連れ帰ったということでした。

以来、父母と共に厳しい住居環境の中で生活していたが、母が二十三年に死去して以来、昭和二十四年上下町へ住居を移し、更に二十七年に広島市皆実町五丁目に自宅を建設し父と共に生活していました。

夫が昭和五十四年県職を退職し、甲奴郡甲奴町に帰り、県議会議員となり、広島市と田舎の二重生活を送り、平成に入り田舎に転居し生活していましたが、昨年十二月転倒し、歩行困難となり広島市西原町の富山学園西原ほのぼの苑にお世話になり現在にいたっております。

私は被爆後頭髪も抜けかわり、とかく病弱で外出し日光に当たると眩暈がするなど、白血球減少症の診断を受け治療し、三十年初期卵巣膿腫、続いて腸閉塞という大病で大手術をしながら、加えて股関節摩滅のため疼痛著しく、歩行も不自由ながら今日九十歳を迎えていることが不思議であり、これも御先祖様の御加護や家族及び知人の支えがあってこそと感謝しています。
  

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