一 あの日失ったもの
昭和二十年八月六日。広島、江田島で被爆した。当日午後広島市内に入った。
阿鼻叫喚の市内で同期生とともに連日連夜負傷者の看護、死体処理をするのが日課。
八日間救護活動、作業し十五日終戦。そして九月十一日帰休除隊して帰郷、それから六十九年の歳月が流れる。
その間、病気に悩ませられる。二型糖尿病、高血圧、不整脈、肺癌、多発性脳梗塞、膵臓癌手術する。石川県原爆友の会より厚生省へ申請、原爆症と認定される。
私は結婚し三人の子を成した。
長女、昭和二十三年六月福井大震災で家屋倒壊で圧死、生れて一年にも満たなかった。
三女、平成十二年十一月、悪性リンパ腫にて死亡。心配なのが原爆二世と悪性リンパ腫で亡失した子供原爆三世の孫であり、病気にならぬよう祈るばかりです。
二 今まで誰にも言えなかった苦しみ
同封した別紙の私の書いた広島、原爆被爆体験行動・感懐重点草稿にもどうしても書けなかったこと、今日有りの儘筆にしました。
原爆投下三日目
仰臥する負傷者の額に濡れた手拭を当てる。小川からバケツで汲む水は、炎暑の熱さで、すぐ生温くなった。それでも熱のある身体には気持ちが良いのか目をつむる。こうして一人一人介抱して回る。水が無くなったのでとりに行き負傷者のもと帰って、アッと驚く。固く絞った手拭の端の方を口に入れて、チューチューと吸っているではないか。思わずコラー、水飲んだら死ぬ、手拭いを剥ぎ取る。ドッチボールのように腫れ上った顔の目は剃刀のように細いけれど恨めしい目で、ジッと私を下から見上げる。その目つきは哀願している。堪らない哀れさを感じ軍の命令に無性に腹が立つ。
翌朝、乾パンを喰べ乍ら昨日の負傷者を見にゆく。手拭いが落ちて顔色が紫色に変じ冷たくなっていた。風船玉のような顔が萎んで小さく細く見える。別な方向からも声を上げて泣いている。私も声を上げて泣いた。誰とも名前も知らない人、僅か一日、わずかな時間でも看護して微かな気持が通じあえたのだろう。本当冷たい清い水をコップ一杯、いや半分でよい飲ましてあの世とやらへ送って差上げたかった。今まで七十年近くいや六十八年誰にも語れぬことは私は人間の心をもたぬからですか。今は違います、安らかに眠って下され。
残虐性、非人道的な爆弾を落下させた米国を疎んだ。私は帰郷後小さな田舎で差別と偏見に苦しみ愚痴をこぼして自分を慰めた。
しかしこの件は六十九年になるのに本当の事は云えない。何故だろう。死者への冒涜か、それとも情なのか。
三 被爆体験を伝承することはできるのか
アメリカによる原爆投下から六九年目の夏を迎えました。原爆は街を廃墟にし多くの尊い命を無差別に奪い去りました。辛うじて生き残った者も放射線の後障害による様々な疾病を抱え、差別と偏見に苦しめられてきました。それは今もなお続いています。私たちは自らの苦しみをもとに「ふたたび被爆者をつくるな!」「核兵器なくせ!」と訴え続けて参り、この世代の体験を子供たちに語り継ぐのが私たちの責任だと思います。
これまで頑張ってきた「石川県原爆被災者友の会」の活動を援助し運動を継続し全国的に二世の会が組織されつつあるが交流し連携を探りたい。しかし政府はどうか?
「いかなる状況下でも核兵器が再び使用されないことに、人類の生存がかかっている」という共同声明に七〇か国以上が賛同したのに、日本政府は賛同国に加わらなかったこと、理解に苦しみます。唯一の被爆国としての責任を自覚していないように思える。賛同を拒んだ理由は「いかなる状況下でも」の文言にこだわったからです。アメリカの「核の傘」に依存する日本の安全保障政策との整合性がとれないというのです。「核なき世界」の実現に向けて、世界の核廃絶運動をリードしていくとともに今でも苦しんでいる被爆者への思いやりの眼差しを向けてほしいものです。
近代化で見失ったもの、歪みとして生み出されたもの、人間の心との闘いに対して政府は被爆者の思いを代弁して国際社会の核廃絶の旗振り役をして欲しいものです。
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