朝の掃除も済ませ今日も一日暑そうだなと思って空を見上げたしゅんかんピカ!!ッと一しゅんのせん光が目の前をはしる。思はず手で目をおおい自分の家にバクダンが落されたなと感じ近所の子供達が朝早くから二人遊びに来ていて二人と妹(当時三才)達が裏庭で遊んでる事に気づき思はず裏庭へかけて行き妹達友達三人を連れて裏に造って有った防空壕の中へ引張って入ったしゅんかんゴオーと云ふものすごい音がしてガチャガチャ、メリメリと高い音にびっくり、ここにいては家が焼かれてしまうので身のきけんを感じ、裏山へ逃げようと思って妹達を引さげて防空壕から出て裏山の方へ行く。裏山と云っても小高い畠でそこの柿の木のそばに身をちぢめて、ぶるぶるとふるへていたら母がやって来て母も畠にいたら爆風で三、四メートルばかり吹き飛ばされ、びっくりして帰って来たと云って私達のいる所へにげて来た。
其のうちポツポツと黒い雨が降り出したので又びっくり傘を取りに私が家迄帰って見ると傘のおいてあった所はメチャクチャに吹飛び傘等はどこへ行ったか見当たらず、しかたがないので其のまま皆がいる所へ引返して其の頃には真黒い雨がヂャンヂャンと降って皆が頭から黒い雨でズブぬれになり、真黒い雨で着ている服(当時は袖の長いモンペ姿)等はビショビショに成ったが雨のやむのを其のままじっとして待っていた。
其の頃私は広島信用組合己斐支所に勤めていたので時間的にそちらの事も頭に浮かび責任者の人が私を探がして連れて来られたので一緒に組合に行って見ると事務所もメチャメチャにこわれ足の踏み場もない程こわれ其のうち組合関係の人が出勤して来られたが手のほどこし様がなくこわれた机等、一つ一つ片付けて又自分の家に帰へって行った。
十二時のお昼が来てもどうする事も出来ず家は焼けなかったが天井等は皆落ち、建具も吹飛んで手のつけようもなくお昼を食べる所ではなく食事に困った。
午後三時頃から広島市内(天満町、観音町、西新町)から親せき者達がボツボツやって来て中には手の皮がはがれてぶら下がり水をくれ、水をくれと云って来たが水をのます事も出来ず困った。
とうとう二十人近くの人がボロボロ姿でやって来たがどうして上げてよいやら本当に困り抜いた。
私の家が吹飛んでこわれているので、おる場所がなく仕方がないので裏の納屋(二階建)の下の方にムシロを敷いて皆がそこに固ってぶるぶるとふるへ乍らおる。
其のうち婦人会の人が出て炊き出しをして一人に一個づつのオニギリを取りに来る様にとの連絡が有ったので、私が皆のオニギリを取りに行き其の日は一つのオニギリが食糧だった。
其のうち夜がやって来たが何と云っても柱だけが残った納屋に二十人余りの者が一つに成って、そこにねる事にしたが夏の事だけに蚊がたくさんいて大変だった。蚊やを取りに主家に帰へったが天井の土と黒い雨で蚊やも出す事が出来ず蚊にさされ乍ら一夜を明かした。皆もねるどころではなく誰もねた者はいない。唯々どうしてよいやら皆の胸のうちはびっくりするばかりで困りはてた。
昼食のオニギリを取りに行く。そんな日を毎日くり返していたが親せきの者もお互いに自分の家が心配になり気がかりなので一人帰へり二人帰へりしてボツボツと皆帰へって行く、後から聞いた事だが皆の家は全焼したとのこと。広島市内は火の海になったので私の家は焼けなかったが柱が残っただけで建具もどこかへ吹飛んでしまい手のほどこし様もなく困った。でも少しづつでも片付けていかなければならず男の手のない私方も本当に困りました。
私は信用組合の方に行かなければならず母一人が少しづつ整理していったが何しろ萱建の古い大きな家なので本当に困った。
身内の中には広島銀行本店に勤めている者もいたが、ちやうど時間的に電車に乗ってる時間と思うがとうとう帰へらぬ人成った。又義姉も朝から出たままで家へ帰へらぬ者となり行ける者は皆揃って町の中(焼野原)を探がしに出てあちこちと探がして見たが、とうとうどこにも見当らず其のまま焼死したものと思う。
八月十五日の終戦放送でホットしたが弟が飛行予科練で鹿児島の航空隊に入隊していたのがヒョッコリと帰へって来たので私達はびっくりした、母は弟と飛びついて喜んだ。
弟も終戦がもう一日後だったら鹿児島の航空隊から戦地に飛び立っていたとか、予科練に出征して以来顔を見る事もなく、もうあきらめていた所だけに元気で帰へって来られたので本当にうれしかった。
家のこわれたのを弟達が一生懸命に片付けて行く。
私の家がちょっと高い所に有ったので広島市内が焼ける様子がまるで見え、毎日の様に見える様子は何とも云へない気持。
己斐小学校の運動場には原爆で亡くなった人達の焼場となりたくさんの人がそこで処理された。
道路ばたには死んだ人達があちこちところがっており、中には虫がわいている者もいた。そんな様子を見ると私の胸のうちは何とも云へない想いだった。
私も二十一年の一月に主人と結婚して現在に至っている。
主人の身内の者も兄弟七人程原爆で亡くなり其の供養を私達がしている。
主人は朝日新聞西部本社(小倉に有る)に勤務していたので結婚と同時に小倉に行き生活がはじまる。
主人の生家は広島市内(西新町現在河原町)に有ったので全焼しているし、そこで兄弟達が皆原爆死してしまいました。
八月六日の原爆の日が来る度に当時の事を想い胸が痛みます。
広島は西のはしから東のはし迄一望で見渡せる焼野原と成り主な建物(福屋等)だけが残る焼野原となる。
現在の広島の街を見ると、あの時八月六日の焼野原とは打ってかはった現広島、本当によく市民の人ががんばった事と感心する。
私の実家も昭和三十年に建てかへた。
あの時にがんばった母も今は亡く、原爆慰れいひにねむっている。
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