昭和二〇年八月六日は世界で最初に原子爆弾が広島市に投下された日であり、幾数万の人命を奪い去る悲しい終生忘れることの出来ない日です。あれから四〇年もの歳月を経ているけれども、自分には昨日の出来事のように思われます。
当時、広島造船所に計算上級工員記録係りとして勤めていました。朝鮮から来た若い青年たちがいました。自分たちも応徴士として地区民の方々の激励の言葉を戴き長崎より広島に転勤し、産業戦線の任務に就きました。当時は昼夜造船に当たり、苦しい毎日が続いていました。
先に原子爆弾投下前の広島の状態を記す事にします。長崎から広島に帰った七月ごろ以来、幾度か警戒警報はありました。六日の前日、休みが明け寮に戻ると、同僚から「今日、空襲警報があった」と聞きました。大編隊の飛来も無かったかと思います。
明けて八月六日、当日は青空に薄い雲がところどころ浮かんでいる程度で、夏の日差しがじりじりと照り始めていました。自分たちの寮は南観音三丁目で南寮と言われていました。昭和大橋を渡って南東に横に入ったところで、川堤防下にありました。午前七時過ぎ突然警戒警報のサイレンがなり始め、堤防下に一応待機しました。
横には倉庫らしきものがありました。暫くして警戒警報解除となり安心と思った瞬間、青い閃光がはしり、ボゴンという爆発音とともにものすごい勢いで爆風が起きました。窓ガラスが地面にたたきつけられる音とともに壊れ飛びました。きのこのような形の雲が吹き上げているのが見えました。食堂の屋根は壊れ壁はおちたり曲がったりしていました。傾いた寮は戸が開閉できない状態となりました。
街は火炎の海と化し,衣服が裂けてやけどで丸く腫れ上がった顔の人々の群れ、生き地獄とはこのことででありましょうか。きのこ雲から数分間たって西北の方向の山からわずかに曇りだし雷鳴とともに大粒の雨がぱらついてきました。工場が急きょ収容所になり負傷者とともに工場に向かいました。コンクリートの上に負傷者が次々とはこばれ横たえられました。暗くなっていくに従って市街地は燻る火炎の光が燃え上がったり消えたり、まるで幻かのろしのように見えました。残留工員は全員工場に集結、コンクリートの上で夜を過ごしたのです。二日目は工場は閉鎖同然となり工員は離れ離れになりました。朝鮮の人も残留となりました。通信網は途絶え郷里への連絡も取れませんでした。当時広島に召集できていた兄の身の上を案じ、焦土と化した街を、川を探し回ったがみつけることが出来ませんでした。舟入の電車線路には、ずらりと負傷者が担架のまま、線路に横に並べられていました。腫れ上がった人々のうめき声と、黒焦げになった死体は、今も私の脳裏から離れません。救護班であろう人が次々と応急手当をしていくが、力尽きて倒れてしまう人もいました。街路樹は途中から折れ、黒焦げになっている鉄骨の丸いドームと福屋百貨店が異様に残っていました。爆弾投下後も米軍機が飛来し低空で旋回しました。
毛布を手に逃げ惑い大変悲惨な目に合いましたが、最早広島におることは出来ないと思い、Sさんと飲まず食わずで「へさか」の駅へと歩きました。駅前の防空壕で野宿し一一日に郷里に帰ることが出来ました。その後も度々入市しましたが、人影は見えず、焦土と化した広野のみでした。相生橋の上に一焼死体と石段にこしかけたままの影が残っていました。二四日に徴用解除となり事務整理をして、郷里に帰りました。
最後に地球上で原爆が広島と長崎が最後であるよう願うものです。そびえたつビル、舗装されている道など、今は立派に復興していますが、けして戦争の犠牲になった死者たちの御霊をわすれるようなことがあってはなりません。二度とこのような惨事を起こしてはならない、これが私たち被爆者の願いです。
犠牲になった人たちの心からの冥福をお祈り申し上げます
一九八五 記
|