原爆投下時にいた場所と状況
広島市南竹屋町すぐ近くの密集地帯(場所)
四月十日主人に見送られて東京駅をたつ。広島の親戚をたよって行き、すぐ近くに借家がみつかり五月下旬移り住む
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
昭和二十年八月六日決して忘れることは出来ない。
一、三キロの地点でピカもどんもないいきなり真暗くなりあちこちでうんうんうなっており地球がどうかなったのかみんな一緒なら仕方がない。何分たったのだろう、五、六分位か長いような気がした。少しづゝ明るくなり元通り明るくなった時の驚き、何ということだろう、一面の屋根は全部ぺちゃんこで、はるか彼方まで見渡せた。パサッと音がしたような気はしたがこれだけ大きな瓦解の音だったとも思えない。コンクリートの建物がうすよごれてぼつぼつ立っている。大勢並んで建物疎開の瓦おくりをしていた人々はどこへ行ったのか私の従姉妹もいない。二、三人の人がぺたんとすわったり、しゃがんでいる「奥さんひどかったわねー」というその人は、ぼろぼろのわかめをわずかに身につけている感じ、私はどうなのか。白いブラウスを着ていたので、ぼろぼろになっていない。でも、うでや背中は大きく、さけている。こうしてはいられない。早く安全な地帯へと屋根の上を歩いて我が家へと歩く。勿論家はぺちゃんこ、少し離れた小さなトイレだけちゃんと立っていた。財布も出せないし防空ずきんがそこいらにひっかゝっていたので、それをかぶって文理大のグランドへと行く。
こゝはすでに一ぱいの病人、腿から大きな骨が出ていて何とかしてくれといっている人、私も顔がちりちりしだして顔中がはれ目が見えなくなる。口もろくに開かず手で目を開け楠那小学校収容所へと行く。そのうち高熱が続いて、うわごとをいってはごそごそはい出し隣りの重病人から痛いといわれて我にかえる。一目主人と息子に会って死にたいと思った。従姉妹は二、三日後亡くなったよしである。二十一才で。息子は文理大附中一年生で全員農耕の手伝いという名目で八本松に行っていて全員助かる。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
その後ぼつぼつ回復二十九年春、再び東京に住むことゝなる。三十年五月ひどい白血病で大根一本の重みが応える程になった。渋谷日赤病院放射線科の先生がびっくりされ骨髄の検査、その他色々、白血球二、二〇〇とに角、体がだるくて毎日ねていた。その後少しづゝよくなっても、毎年夏になると足がだるくいき(呼吸)がつらいつらいとよく口に出た。大体元通りになるのに二十年かゝる。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
戦争は絶対にいけない。世界中みんな仲よく手をつないで生きたいものだ。人生長く生きても百年。欲をし人を落し入れ悪をいうより人のため社会のために僅かでも尽して一生を終えたいものだ。
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