原爆投下時にいた場所と状況
広島市仁保町
東洋工業に学徒動員され、勤務が始まったばかりの時でした。屋内です。
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
当日東洋工業に収容された被爆者の数は三千人と聞きました。第一から第十二迄の十二棟の二階建ての食堂の二階部分に集められました。重傷者は多少人手をかけて看病されたものもありましたが、大部分の人達は絶対的な医薬品の不足のため唯コンクリートの床の上にまるで魚河岸のマグロの様に、ゴロンところがされている様な状況でした。
一時的に大量の死者、負傷者が生じた場合は、人間が人間として扱ふ事が不可能な事を目の当りにしました。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
比較的体調は整えられて来ましたが、それも三十才後半迄でした。
四十才の声をきく様になると、急速に老人化現象が現れ、歯が抜け白髪がふえて来ました。
総入歯になったのは、五十才にならない内からで全体的に骨の故障が続く様になりました。
運動機能が急におとろえ、脚の運動に不自由を感ずる様になり、歩行困難は目前に迫っています。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
広島長崎の被爆者が最后の犠牲者であってほしいと切に祈って居ります。当被爆者丈ではなく子供や孫にも遺伝子の損傷といふ形で受け続けられて行く事実は何とも形容し難い悲しみです。美しい地球を人類の幸を、これからもづっと子や孫に受け続いて欲しいと切望しています。
人類が幸である事の為には、再び被爆者が発生し、私達の様な悲しい経験をする事は愚しい事です。真の賢者である事をねがっています。
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