●被爆前の生活
当時私は十一歳、観音国民学校六年生で佐伯郡観音村字佐方(現在の廿日市市)に住んでいました。父の久保本忠と母勇、私のほかには弟が三人おりました。父は中国配電(現在の中国電力)に勤めていましたが、七月頃から腸チフスにかかり家で休んでいました。本来は隔離病院に入院するはずでしたが、隔離病院がいっぱいで入院できず、女医さんが往診に来てくれていました。私たちも当初はうつるからと母の実家に行っていましたが、被爆前には戻ってきて父母と一緒に生活していました。
家では、裏山に防空壕を一メートル五十センチぐらいの高さに掘ってあり、そこへござを敷いて空襲警報が鳴ったら縁側からすぐにそこへ入れるように準備してありました。初めは警戒警報が鳴ったらすぐに防空壕に入っていましたが、回数が多いために警戒警報ではすぐに避難できる準備をし、空襲警報で避難するというようになりました。サイレンが鳴ると怖かったものです。
●八月六日
八月六日は登校日になっていました。学校まで片道三十分はかかるので、七時半には家を出ていました。八時頃からみんなで教育勅語の暗唱が始まりました。日課となっていたので今でも内容を覚えています。教育勅語を唱えているときにピカッと光りました。その光は、太陽の光を鏡で反射させたような光で、先生は生徒がいたずらをして鏡を反射させているのかと思って「誰ですか?」と言われた、その数秒後にドーンという衝撃が来ました。ガラスは障子紙を貼って補強していましたが、メリメリと音がしてヒビが入り、また何枚かは壊れごちゃごちゃになりました。私たちは空襲のときの避難訓練をしていましたので、すぐに机の下に潜り込みました。爆心地から何キロも離れているのに、学校のすぐ近くに爆弾が落ちたようなすごい衝撃でした。怖くて、防空頭巾をかぶってしばらく机の下でじっとしていました。
しばらくして学校の近くの川土手に避難することになり、川土手に植えてあった梅の木の下で九時頃からお昼ぐらいまで避難していました。昼前になって爆弾は広島に落ちたことが分かったので下校することになり、防空頭巾をかぶったまま佐方方面に住む四~五人で一緒に下校しました。家に向かっていると、やけどで焼けただれた人たちが西へ西へと向かって歩いていました。服が破れ、血を流し、痛い痛いと泣き叫びながらやっと歩いているようでした。そんな人の中には、山口県との県境に位置する佐伯郡大竹町(現在の大竹市)の親戚の所まで行くと言っている人もいました。かわいそうにと思いましたが見るのも怖い姿でした。帰っている途中、にわかに曇ってきてザーッと黒い雨が降ってきたのを覚えています。
家では、両親や弟にけがは無く無事でした。ただ、市内が全滅という話は入ってきているようでした。その夜は、広島の市街が燃えているのが見えました。その前の呉の空襲のときと同じように夜通し真っ赤な夜でした。
●被爆後の様子
次の日も五年生と六年生は救護の手伝いのために学校に行くことになりました。学校では、講堂にむしろを敷いて、被爆した人々が横たわっていました。大きな講堂に足の踏み場も無いほどで、三百人はいたと思います。私が行ったときには赤チンだらけになっていましたが、やけどやけがをして服はボロボロになり「水が欲しい、水が欲しい」と言われていました。水をあげるとすぐに亡くなるので水をあげてはいけないと言われたことははっきり覚えています。水を求める人を見るとあげたらいいのに、と思っていました。子どもだった私たちは寝ている人の周りを掃除したり、おかゆを配るなどの手伝いをしました。
講堂の窓からは、同級生の男の子が担架で死んだ人を運んでいるのが見えました。校庭の端には死体がいくつも山積みになり、そこへまきやわらを積んで焼いていました。死体を焼く臭いは臭かったです。
また、地域の名士のお子さんが広島の学校に行っていて被爆して一人だけ特別に校長室に寝かされていましたが、その人も後に原爆症で亡くなりました。八日頃にはけがをした人たちの傷口にはウジがわいてピンセットが無いので箸で取ってあげたこともありました。
その後、九日頃からは学校に行くこともなく家にいたと思います。その頃に、多くのB29が飛んでいくのを家の木の陰から見ました。次はどこへ空襲に行くのだろうかと両親が話をしていました。八月十三日頃にも多くの飛行機を目撃しました。その日はうちの隣の二十歳ぐらいのお兄さんが建物疎開に出て被爆して亡くなり、お葬式がありました。お兄さんは中国醸造へ勤めており、職場から団体で建物疎開に行き十日市で被爆したそうです。団体で行っていたので、所在が分かって六日のうちにトラックで帰ってこられたのですが、三日後亡くなってしまいました。葬儀のときにもB29の来襲があり、空襲警報があったことは記憶に残っています。
●終戦を迎えて
十五日、終戦になりました。うちにはラジオがあったので、近所の人たちも集まって玉音放送 を聞き、みんな地に頭を付けて泣いていました。近所のおばさんも負けたと言って泣いていました。私自身は、空襲がなくなることがうれしかったのを覚えています。しかし、その後は進駐軍が来て女の子は連れていかれるといううわさが広まりました。そのため、進駐軍を見掛けると怖くて、戦後しばらくの間はどうなるのだろうという不安がありました。
その後学校が始まってからは、原爆にあって観音村に来ていた親戚の子の髪が抜けはじめました。毎日髪が抜けるようで、みんなからピカドンのせいだと言われかわいそうに思っていましたが、その後亡くなりました。そういうことを目の当たりにすると、だんだん日が経つにつれて自分もいつなるかなという不安な気持ちになりました。
●被爆で亡くなった親族
父は広島市出身で、実家は現在の十日市町の近くにありました。そこには父の兄の家族で私のいとこ四人も住んでいました。八月六日はそのいとこたち三人が疎開のためうちに来る予定でし た。当時は今のようにトラックや車が無いので馬車で来る予定だったのですが、その日の朝八時に来るはずだった馬車が来ないので馬車屋に電話をしていたときに原爆が落とされたのです。縁側で電話していた伯母は戸が無いので庭に出て逃げることができましたが、家の中にいて電話しているのを見ていたいとこたち三人は壊れた家の下敷きになってしまったのです。屋根、天井を取り払って助けようと思っても、伯母一人ではいとこたちを助け出すことができませんでした。そうしているうちに火災が迫り、いとこたちもそれに気づいて「お母さんごめんね、でも逃げて」と言ったそうです。伯母は、助けることができないまま「ごめんね、お母さん逃げるよ」と言ってその場から逃げ、そうして伯母はやっとの思いで己斐の親戚の所にたどり着き、それから何日かしてうちに来ていました。うちに来た伯母はとてもしんどそうで、家族を助けることができずに逃げてきた、それが何より残念だと言っていました。その伯母も、八月下旬には亡くなってしまいました。伯父は原爆が落とされたときは仕事で天満町に行っており、助かりました。自転車ですぐに自宅に戻ろうと思ったそうですが、火の手が上がりもう帰れなくなっていたそうで す。
十九日頃、私は父とすぐ下の弟と一緒に父の実家である伯父の家まで行きました。己斐まで広島電鉄の電車に乗って、その後は歩いて市内に入りました。己斐に着いたときには、市内は何もなく福屋百貨店の残骸だけしか見えませんでした。橋は焼けてしまっていて、下の見える鉄橋を四つんばいになって渡って怖い思いをしました。街はまだ瓦礫が多く、線路に沿って横川方面に向かいました。市内はまだ煙がくすぶっていて家は全て焼けているので、どこが父の実家だったのか分からないほどでした。お風呂場のタイルが焼け残っていたので、それを見てそこが父の実家だったと分かったのです。子ども心に、ここで多くの人が亡くなったことを思うと怖いと感じました。
原爆によりいとこの家族は当時家にいなかった次女とその父だけが助かりましたが、そのとき女学校二年生だった彼女は原爆により家も家族もなくして生活が大きく変わり、その後とても苦労したようです。
●平和への思い
戦争は絶対反対です。戦争が終わったと親から聞かされたとき、空襲警報が無いと思うとうれしかったです。それほど空襲警報は怖いものでしたが、当時は教育で神の国だから絶対勝つんだということを教えられ、みんな一生懸命やっていました。私の祖父はアメリカ帰りだったので「日本があんな大きな国と戦争して勝てるわけがなかろうが」とよく言っていましたが、母に非国民で捕まるからと怒られていました。
戦争になると、若い人は戦争に行かなくてはいけなくなります。当時は四十歳でも戦争に駆り出され、友達のお父さんもソ連に抑留され亡くなったという事があり、クラスのみんなで泣きました。私の父方のいとこも若くして戦争に行き、南洋で船が撃沈されて亡くなったそうです。将校でしたので、出征前にはうちにあいさつに来ていた姿を思い出します。また、いとこ三人と伯母が亡くなったことを思うと再び戦争は起きてほしくありません。私の孫も大きくなり、孫のような若い人たちが戦争で命を落とすことがない世の中になることを願っています。
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