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広島鉄道局電務区職員が見た原爆 
中西 正(なかにし ただし) 
性別 男性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2016年 
被爆場所  
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 広島電務区 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
当時、私の家は、佐伯郡津田町(現在の廿日市市)にあり、石屋を営む父・藤吾、母・ミサコ、功と司の二人の弟、妹の生子と暮らしていました。その下にもう一人、弘という弟がいたのですが、母が病気になったため、おじの家に預け、後に養子となりました。

子どもの頃から実物を見たこともないのに鉄道が好きで、小学校を出て広島鉄道局を受けたのですが、最初は受からず、役場で雑用係のようなことをしながら、再度試験を受けて、広島鉄道局に入りました。昭和十六年六月、満十四歳のときでした。

最初の勤務地は比婆郡西城町(現在の庄原市)の備後西城駅でしたが、電信の仕事をしたかったので、試験を受けて広島鉄道教習所に入りました。半年間ほどの教習を経て、その年の年末か ら広島駅の電務区に配属となりました。

電務区は、電報・電話・モールス信号による通信を取り扱う部署です。私はモールス信号を担当していました。列車の運行から荷物の事故といったことまで、何でも、トンツートンツーとイ ロハ四十八文字を電信で打つわけです。

広島電務区には電話の交換手が女性ばかり五十名ほど、電信掛が三十~四十名ほどいました。二、三時間で百通以上は電信を打ちますから一日では千通以上ではなかったでしょうか。そんな 日々でした。

●八月六日
津田の家から職場に通っていましたので、いつもは五時四十分に家を出て大変でしたが、自転車で廿日市駅に向かい、七時二十分の上り列車に乗っていました。ところが、その日に限って自転車がパンクしており、バスに乗ることにしました。そのためいつもより遅れ、廿日市駅に着い たのは八時過ぎでした。いつもは駅の職員と世間話もするのですが、鉄道局では八時に朝礼ですから、話し相手もなく、ホームに行って上りの陸橋の下で、なんとなしに広島市内の方を眺めていました。

すると、ピカーッと光りました。昼でも雷が落ちると空が光ってみえる、そんな感じの光でした。それから、真っ黒い雲が、上が山のように盛り上がり、下の方はひょうたん型にぐんぐんぐんぐん膨らむのを見ました。その真ん中は真っ赤な火の玉です。さらに、その真ん中から、真っ白い輪の形の雲がぐんぐんぐんぐん広がってきて……。廿日市にいる自分にまでは影響が無いだろうと思っていたら、ドカーンと爆風がきました。廿日市駅の待合室の窓ガラスもパーンと飛んで割れました。

日本通運己斐支店の廿日市営業所が駅前にあり、社員が広島市方面に電話を掛けても五日市から東は通信が絶たれている状態で全くつながらないので、己斐支店に応援に行こうという話になっていました。私も日通のトラックに乗せてもらって己斐まで行くことにしました。

●広島市内の惨状を目撃
トラックは二号線を走り、東へと向かいました。混雑もなく己斐までスムーズにたどり着くことができました。途中、井口の広電電停の辺りで被爆者の姿を初めて見ました。若い女性だったと思うのですが、服は焼け上半身が裸、腕の皮膚がダーッと下がっている姿で、西に向かっておられました。

己斐で日通の人たちと別れ、爆風により飛び散った己斐駅(現在の西広島駅)の瓦の上を踏んで上りホームまで行きました。そこからは広島市内が見渡せました。列車が走っていないことは分かっていましたので、レールの上を広島駅方面に歩いて行きました。
途中で様々な光景を見ることになりました。横川駅に着いたときに、ホームの上の陸橋に火がついてちょうど燃え始めたところでした。横川でそうなので、爆心地に近い町はもう燃えていたことでしょう。

横川駅を過ぎて楠木町の辺りでは、「助けてくれ。助けてくれ」というおばあちゃんを見ましたが、私も職場に急がなければならない状況で助けることができず、心の中で詫びながら通り過ぎました。

神田川鉄橋の上には脱線した貨物列車が止まっていて、機関車の上に乗務員が倒れていると思って登ってみたら、乗務員ではなく、下関から入隊した兵隊さんが泣いていました。前日に入 隊したばかりだったそうです。

広島駅までレールの上を歩きましたが、枕木は焼け焦げて、私の黒い靴もくすぶって茶色になっていました。そのときには熱いという感覚もありませんでした。

●広島駅電務区と同僚について
広島駅に着くと、真っ先に勤務先の電務区に行きました。電務区の建物は残っていましたが、二階で仕事をしていた電話交換手の加藤さんは天井の下敷きになって亡くなっていました。勤務は八時開始ですから、あの日、自転車がパンクせず、いつもどおりに職場に着いていたら、原爆投下の瞬間には、私も広島電務区にいたはずでした。職員全員で約百人ですが、交代勤務なので四十~五十人くらいはいたはずです。

それから、私はけがをした人を背負って避難することにしました。そこにいた三十~四十人くらいの同僚とともに矢賀方面に向かいました。途中でバラバラになりながらも、私たちのグループは、府中へたどり着きました。若草町から尾長へ。松本工業学校の下を通って、矢賀方面へ、そして、電務区の先輩の家のある府中へと向かったのです。私とけがをした女性と先輩と、他に二~三人が一緒でした。日が暮れかけていて、市内が真っ赤に燃えているのが見えました。もう 夕方になっていました。

●同僚を助ける
八月八日、岡山県の玉島(現在の倉敷市)が郷里の電信掛の女性がいたので、送り届けることにしました。向洋駅から岡山方面に向かう列車に乗りました。玉島駅(現在の新倉敷駅)から海岸近くの自宅まで約二キロを夜中に歩き、お母さんの元に送り届けた後、すぐに折り返しましたが、当日夜十時すぎの福山空襲の後でしたので、上り下りとも列車が運行していないことが分かりました。運よく、玉島駅の職員に同期生がいて当直にあたっていたので、駅で一緒に寝かせてもらいました。翌日、復路は往路とは異なり、倉敷駅から伯備線で新見駅まで行き、そこから芸備線に乗り換えて、八月九日の夕方に、ようやく広島駅にたどり着いた次第です。

電務区では原爆投下の直後から職員が働いていたと思います。回線が生きている限り交換手は要りますし、回線がなければ列車は動きませんから。私も玉島から広島に帰った後は、廿日市の家には帰らず、電務区に泊まり込みで働いたと記憶しています。帰宅したのは、それから二~三日後ですが、もちろん、それからも毎日、廿日市から広島駅に働きに出ました。

●戦後について
終戦のときに、それまではB24やB25の来襲を音で聞き分けながら毎日を過ごしていたので、やれやれこれで終わった、もう空襲もないんだと思ってホッとしました。人生の中で最も忘れら れないことです。

終戦後は転勤で、廿日市、広島、向洋、海田市、三次、下松、長門……、いろいろな駅に勤めました。駅の一職員から助役になり駅長になっていったわけです。その間、単身赴任でしたが、廿日市の今の家を建て、二人の娘も育ちました。特に病気もなく健康に過ごしてきました。ありがたいことだと思っています。

 

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