●被爆前の生活
当時、私は十三歳。松本工業学校の二年生で、父の暁、姉の照子(十五歳)と荒神町に住んでいました。母は昭和十六年に結核で亡くなっており、三人家族でした。父は鉄道の機関士をしていましたが、母の死後、退職して家にいました。機関士の仕事は夜勤があったため、仕事を続けるのは難しかったようです。姉は安田高等女学校の四年生でした。
学校での授業はほとんどなく、一年生の二学期くらいからあちらこちらの工場に動員させられたり、農家に農作業の手伝いに行ったりしていました。二日に一回は軍事教練があり、兵隊さんと同じように背のうを背負って行進したりしていました。年を取った将校と現役の上等兵とか伍長が学校に来て訓練するのですが、一人が失敗すると連帯責任で、みんなが並んで殴られたりもしました。
藤川製鋼所には半年くらい通いました。鉄砲の弾を作っていた工場です。そこでは、機械を疎開させるために山に横穴を掘る作業を手伝いました。最も危険な先頭で穴を掘る作業は朝鮮の人たちが行い、私たち生徒や挺身隊の女性は、掘り出した土を外に運び出し、田んぼに埋めるのです。落盤事故があり、朝鮮の人たちが埋まってしまうこともありました。そういうときは埋まった人を掘り出したりもしました。埋まってしまって意識が無いような人でも、ほおをたたいたり、水を掛けたりしたら、息を吹き返すのです。危険だとか、こわいとかいう気持ちはなく、ただ言われたことを一生懸命するだけでした。
●被爆の瞬間
二年生のうち、三十人が建物疎開作業のため、八月一日から十日の予定で比治山下(比治山本町)に動員されました。八月六日朝、比治山橋のたもとの原っぱに、作業前の朝礼で並んでいました。川上の鶴見橋寄りの方です。爆音が聞こえて飛行機が見えましたので、みんなそれを見ていました。
突然、前方が光り、真っ赤に焼けた砂のようなものをぱっと投げ付けられたような気がして、手で顔を覆いました。手の甲はそのときにやけどしたようです。爆風で飛ばされたかどうか分かりませんが、気がついたら地面に倒れていました。音を聞いた記憶も無いのです。
背中に雨戸みたいなものが乗っており、その上に石や瓦礫がどんどん落ちてきて気が付きました。土ぼこりなのか煙なのか辺りは真っ暗で何も見えず、何が起こったのか、周りがどうなって いるのか、全く分かりませんでした。
●荒神町の自宅を目指して
どのくらいそこにいたのか、時間は分かりませんが、ほこりが治まってある程度見えるようになりましたので、家に帰ろうと思い、比治山橋から自宅に近い荒神橋を目指して一人で歩きました。一緒にいた友達や先生がどうなったのかは分かりません。また、どの道を歩いたのか、どのような光景を見たか全く記憶が無いのです。自分の状況も、顔、首、手、ひざなど体の前側の露出していた所はすべてやけどしていたのですが、それも分からず、痛いとも苦しいとも感じませんでした。ただ、手を下すと痛くてしびれたようになりますので、手を前に出して歩きました。
自宅はつぶれて二階の屋根が道路からすぐの高さになっていました。中に入れませんし、誰もいませんでした。
近くの潰れた家の前で、泣きもせずに一人で座っている二歳か三歳くらいの女の子がいました。「どうしたん?」と声を掛けたのですが、ぽかんとしたままでした。するとその家の下か ら、「おにいさん、助けてください」という、女の子の母親らしい女性の声がしました。
その人は大きな梁の下に押さえ付けられていました。私一人では動かすことができませんし、近くを通りかかる人もいません。「一人じゃ動かせられんけ、誰か呼んでくるわ」と言ってその場を離れました。しかし、結局、助けを呼ぶこともできず、その母子とはそれっきりになりまし た。そのときの私としては、どうすることもできなかったのです。
●荒神町国民学校から青崎国民学校へ
荒神地区では何かあったときには、荒神町国民学校に集まることになっていました。行ってみましたが、父も姉もいませんでした。学校の前には大きな防空壕があり、私のけががひどいので、「防空壕に入りなさい」と言ってくれる人がいました。防空壕に入ると安心したせいか、そのまま動けなくなりました。
その後、トラックが来て、青崎か似島に移動することになり、どちらに行きたいかと聞かれました。「似島にはよい病院があるので、似島に行け」と言われたのですが、まだ、家族に会うことができませんし、遠くに行きたくありませんでしたので、青崎国民学校に連れていってもらいました。
青崎国民学校は、爆心地から五・二キロメートル離れた所にあり、救護所となっていました。私は恐らく一番早く到着したおかげで、一番よい場所に寝かせてもらい、やけどを治療するための油も入れ物に入れていっぱいもらいました。当時は、やけどの治療には油が一番いいという話でした。そのときはもう顔がはれて目もほとんど見えなくなっていましたが、婦人会の人が油を塗ってくれました。
●家族との再会
三日目の八月八日、叔父といとこが青崎国民学校に捜しに来てくれました。父も姉も矢賀町にある叔母(父の妹)の家に身を寄せていることが分かり、叔父といとこが、担架で矢賀まで私を運んでくれて、やっと家族と会うことができました。父は、家で被爆し、背中に五十か所くらいガラスの破片でけがをしていました。姉は、学徒動員で、安佐郡狩小川村(現在の広島市安佐北区)の狩留家に農作業に行っていたため、被爆はしなかったのですが、黒い雨に遭ったそうです。
●療養生活
九月の初めまで矢賀で暮らしましたが、ずっと寝たきりでした。治療するにも大した薬は無く、赤チンくらいでした。血と膿みでかたまったガーゼを剝がすとまた血が出ました。それに赤チンを塗るだけです。
被爆して五日目くらいの頃、大阪から来たという日赤の看護婦さんが治療のために、矢賀の家に来てくれました。荒っぽい治療で、ガーゼをピンセットでバッと剝がしますと、血がバッと出ました。私は思わず、広島弁で「おまえ何しよんなら!痛いじゃないか」と怒鳴りました。看護婦さんは「軍人さんの治療はこういうふうにするんです」と言いましたが、私は「もう帰れ!」と言って帰らせてしまいました。その看護婦さんは、二十日くらい後に父の所に私の様子を聞きに来たそうです。「子どもさんには申しわけないことをした。ほおっておいたらガーゼの下から膿んでくさるからね。ごめんね。痛い目をさせたけれど、どんなですか?」と言ってきたと姉から聞きました。
家にラジオがありませんでしたので、終戦は知りませんでした。まだ、傷も治ってなくて寝たきりでしたので、後から人に聞いたのですが、「あ、負けたのか」くらいであまり印象に残っていません。
九月六日、被爆からちょうど一か月後に父の実家のある安芸郡瀬野村(現在の広島市安芸区)に移りました。大分よくなっていましたが、その頃でも手の甲のやけどは残っていて、痛くてしびれますので、歩くときには、手を下ろすことができませんでした。ある日瀬野駅で、子どもに指差されて「ピカドン」と言われました。頭にきた私は、すぐさまその子に殴りかかりました。するとまた手の甲の傷口が破れて血がバーッと吹き出ました。そんなことが二、三回あってもう誰からも「ピカドン」と言われることはなくなりました。
瀬野に薬を作っているお店がありました。「安の目薬」といって、白い薬で貝殻に入っているのですが、隣のお姉さんがその店に勤めていて、「清ちゃん、安の目薬は傷に効くんじゃぞ。何なら持って帰ったげるわ。」と言って分けてくれました。買ったのではなくて、こっそりもらってくれたのだと思います。これが、案外よかったです。それでも手の甲の傷は、治るまでに半年くらいはかかりました。
●復学
昭和二十一年三月に被爆してから初めて学校に行きますと、「あんた、生きとったのか」と言われました。ずっと休んでいたのですが、四月から三年生に進級させてくれました。でも教室が足りなくて、しばらくは、授業は半日しかありませんでした。一週間午前中に授業を受けたら、次の一週間は午後というように交代でした。物の無い時代で、学校の板塀や机が焚きつけに持っていかれたこともありました。朝、登校すると机がなくなっていたのです。夜のうちに盗まれて 燃料にされてしまったようです。
父は機関士をやめてから仕事をしていませんでしたので、生活は苦しく、授業料を払えなくな りますと、アルバイトをしました。学校を休み、日給百七十円の土木作業です。今の市役所の辺りに大きな穴が空いて水が溜まっていました。本通り辺りから石や砂を集めて馬車で運び、その穴を埋めるという作業でした。授業料やお小遣いをそうやって稼いでいました。
●就職
私は旧制中学でしたので、五年で卒業し、瀬野の農業協同組合に就職しました。その二年後、 郵便局に移りました。実は、当時の郵便局長の奥さんが、私が農協で利息計算を難なくこなすの を見て、この人は使えそうだということで、局長に話し、スカウトされたわけです。給料は同じくらいでしたが、郵便局は土曜日が半日勤務でそれが魅力でした。私は野球が好きでしたので、土曜日に午後から休めたら、野球の練習ができるじゃないですか。実はカープの入団テストを受けたこともあります。一次は受かったのですが、身長が低かったため結局採用されませんでした。
●ケロイドの手術
昭和三十一年に原爆病院ができたのですが、その後、被爆者健康手帳をもらって、ケロイドを取る手術を受けました。それまでは、首はケロイドで引きつって曲げることができませんでした。また、手も指がくっついていたため、そろばんがうまくできなかったのです。お腹の皮膚を 移植して、首も手もかなり自由になりました。
おかげさまで、郵便局では頑張って珠算と査算(現金を数える作業)で一級を取りました。一級を取ると家族一人分の手当がもらえるようになるのですが、当時、両方とも一級という人はほとんどいませんでした。
●厚生省への陳情
昭和三十年代には、「広島県動員学徒犠牲者の会」の活動をしていました。それで当時の厚生省にはよく陳情に行っていました。まだ新幹線も無い頃で、広島から夜行列車の「安芸」に乗って十数時間掛けて、東京まで行きました。広島県選出の国会議員や、厚生省の職員に妻の親戚がいましたので、それを頼って被爆者の手当や医療の援護について、広島県の代表として陳情に行きました。今ではもう制度も整いましたので、そういう活動もしなくなりました。
●子どもたちや孫たちへ
私は十三歳のときに被爆しました。今の中学二年生です。これまでは、毎日の生活に追われていましたし、体調が不安だったこともあり、子どもたちや孫たちに被爆体験を話す機会もありませんでした。しかし、妻が施設に入所したことによって、娘と話す機会が増えてきて、いろいろな話をするうちに、原爆のことも話すようになりました。あのような時代に生まれましたので、今の中学生とは違っていますが、同じくらいの年の子どもたちにこれを機会に被爆体験を話していきたいと思います。
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