被爆地点は市電の中で荒神橋の中央に差し掛かった時でした。ピカドンの瞬間は真暗くなり何が何にやら?広島駅前で乗車前■町(白島か)上空方面にボーイングが飛んで居るのを確認して居たので、そのボーイングの紛弾が附近に落下したものとしか考へられなかった。車内は助けてくれと泣き叫ぶ声で騒然として居たが数分後若干明るくなり車内を出て見た処廻りの家々は殆んどが倒壊して居り、この情態は全市がやられて居るとの話しなので、怪我人の手当等をして居たが、それどころではないと我家が心配で一路牛田町の家に向った。
途中広島駅前の広場には数人倒て居り又被服は焼かれた裸体の女性の姿が右往左往して居る様子を見て驚くばかり。又家屋の下敷になられた数人の助をもとめて居る方々の声を聞いたが火の手が近くまで来ていたので如何とも出来ず、手を合せ見逃す外はなかった。苦労して一一時頃漸く家に辿着いたが幸い家は壁や屋根の破損はひどかったが家族の生命には異状はなく安堵した(妻は落下した瓦が足に当り現在もその怪我の治療をして居る)。自分は車内でガラス傷をした程度であたが昼食後ひどい嘔吐して四~五時間動くことが出来なかった。一週間後勤め先の宇品まで紙屋町経由して徒歩で通勤したが途中は広島市内の面影はなく焼の河原で到所で遺体の焼却又各々橋桁には数百の人体や馬が浮い居りこの世の地獄を見る様であったが、幸い宇品方面の被害は僅少で安心した次第。
白血球は減少し化膿するケースも多かったがどうにか体力もつき復員輸送の仕事に追れ夜勤も多くあり宇品から牛田に帰へる途中降雨夜は到所で集団火葬された後にはボーボーと燐が燃て居る様子、又思はぬ処から突然ポローポロと燐の燃えあがるのを見て驚くことが度々あった。
昭和一六年九月~一九年一二月末まで陸軍御用船で兵員輸送に従事、その間色々な戦場で危険な経験をしたが原爆位い人道に反したものはない。被爆後の状態を見てこんな悲惨な姿がこの世の中にあっても良いものかと強く感じるばかりである。
核保有国に二度とこんな恐しい非人情的な原爆は使用しないよう強く希望する次第です。 |