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被爆体験について 
熊倉 末子(くまくら すえこ) 
性別 女性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市吉島羽衣町[現:広島市中区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
一七才の学生で下宿していた吉島羽衣町で被爆しました。登校しようと廊下の窓ガラスをしめようとした瞬間、ガラス越しにオレンジ色の光りがパッと右ほほに。「熱い」とっさに頭を両手で抱え押し入れに飛びこんだ。ドンと音と同時にガラガラと家が崩れガラスが飛び散り背中一面と右手首にガラスの破片が刺さり血が流れでた。「うぅ~」その時先に玄関に出ていた学友のうめき声。這うようにして玄関に向うとくずれ落ちた家の下敷きになったIさんを一人ではどうすることもできません。すぐ前の家のおばさんとお兄さんが飛んで来て助け出して下さり戸板に乗せて近所の人皆と吉島飛行場へ避難しました。目をおおうような光景です。とても言葉では言いあらわせません。救護所で応急手当てを受けぐったりとなって生きた心地もしません。市内はほうぼうで火の手があがり真赤な炎に包まれて方角の見当もつきません(下宿へは前日の八月五日にそれまでお世話になっていた教授の(皆実町)お宅から引越したばかりでしたから)。上空では敵機の爆音、生きた心地はしませんでした。重傷の友のそばで日が暮れ背中がづきづきします。ガラスの破片がささったままです。夜中に軍隊の人が重傷者を似島に運びました。七日私はお世話になった教授の家へ挨拶に行って自宅へ(福山市の郊外にある沼隈町)帰ることになりました。道は広島駅へ向う人、ただ黙々とその行列について歩いていると、黒焦げの人、何かを引きづっている人、衣類かと思ったらそれは皮膚でした。「水、みず」とみんな叫んでいます。どうしてあげることもできません。みんな生きた人ではないような気がしました。広島駅は焼けて次の海田駅まで歩いて列車で松永駅へずい分時間がかかって一〇時頃つきました。もう木炭バスもありません。そこから自宅まで八キロの道を自宅へ帰ったのは午前〇時頃。山の中の道、最後の力で辿りつきました。そのまま倒れて、翌日(八日の)のお昼まで眠りました。起きるとすぐ町の病院に入院しました。「こんな状態でよくもどってきたな」と院長先生に云われました。広島でのひどい光景を見て自分はたいした事はないと思ったのでしょうか。体力も衰えていたため背中一面に刺さったガラスの破片は一日一ヶ所づつ取りました。二ヶ月入院しました。卒業しても「広島を離れれば広島を忘れられる」と思い上京(姉の所)。東京で結婚しました。でも原爆は私の身体に一生ついてまわり広島を忘れさせてくれません。流産二回、死産一回、バセドウ病の手術、胃のポリープの手術、甲状腺機能低下病と後遺症がつぎつぎに襲います。被爆者への偏見の中で三五年目で被爆者手帳の申請にふみ切り五〇年目の今年中野の被爆者の話を聞くしいの実の会で初めて被爆体験を語りました。「被爆者には奇形児が生れる」という偏見もありました。それは出産に対する恐怖でもありました。でも娘二人孫四人共正常で安心しました。自分の健康には不安があります。世界で二度と被爆者をつくらないで欲しい。これが願いです。 

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