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生きている限り戦いは終らず 
三田村 良子(みたむら よしこ) 
性別 女性  被爆時年齢 6歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市(東観音町)[現:広島市西区] 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
生きている限り戦いは終らず                                               一九九五・一一
 
真夏、炎天下、水を求め生きながら腐敗していく人々、人体実験場になった広島、長崎。各国繰り返される戦争、紛争による悲惨な状況は今も起っているが戦後何年経ても生存者が健康、精神、経済面で辛く厳しい生活を余儀なくされ、結婚、子供を産む・育てる不安が長く続く戦いが今迄にあったでしょうか。医療技術の進歩した現在でもチェルノブイリ原発事故等、放射能の環境破壊、人体に及ぼす影響が解明されず治療方法のない中、五〇年目の今年核実験・再開をきくことは被爆者として本当にやりきれないことです。決してどの様な戦争もあってはならなかったことですが、一般戦災なら頑健な父、次兄、あの日を生きた多くの人々が助かり生存した者の苦しみもいくらか和らいだはずです。
 
広島市東観音町(爆心地より一・二キロ)被爆時外傷もなく無事を喜んだ父、八月三〇日亡くなるまでの症状経過、傍らの医者の手に負えぬ酷いものであったし、六日早朝元気に勤労動員に出た広島一中一年の次兄、被爆場所は分からないが海田市に運ばれ七日午後息を引取ったとのこと。上半身裸で作業だったと聞きました。大火傷の一二才、どんなに苦しく、家族の看護を願ったでしょうか。毎日続く周りの方々の死、情報の混乱、父と同一場所、自宅内で奇蹟的に助け出された母、私何時原爆症に倒れ死を迎えるのか恐怖の毎日であった。長兄の学徒戦病死、働き手、家財すべて無くし、一変した母の家庭環境、何も補償されない時代、足の腫物は治らず、自身、私の体を心配し続け本来なら子、孫に囲まれた幸せな老後であったでしょうが、五一年一月亡くなりました時、これで母も楽になれると思ったほど戦後の母は苦労の連続であった。私も被爆故に子、孫をのこす人世を選択出来なかったこと、生きることが出来た今日、大変寂しく残念に思える。もう一度あの世で父、母、兄達に再会できるものならあの日以前の幸せだった家族でやり直すことを願い祈っている。
 
世界から戦争、核被害がなくなります様に、生きとし生けるもの命は大切に。 

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