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妹妙子(学徒動員)の原爆死(昭和20年8月6日の思い出) 
佐々木 康登(ささき やすと) 
性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2003年 
被爆場所  
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 瀬野機関区 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
当時私は十九才。二人の妹と弟、両親との六人で現在の広島市安芸区中野六丁目に住んでいました。兄は当時の鉄道省から現在の中国に派遣され南京の対岸の浦口で機関車の運転士をしていました。兄の職業にあこがれ私は国民学校(安芸区中野)高等科卒業と同時に十三才で鉄道に就職、十八才の誕生日には機関士になり、広島市の東十五キロメートルの瀬野駅構内の機関区(当時は広島機関区の支区)で蒸気機関車の運転をしていました。
 
ほとんどの職場の先輩が兵役につき、少年のような機関士が多かったため、若くして機関士になった者は戦争のお陰で昇進したという自嘲(じちょう)を込め、自他ともに「蒋介石機関士」と呼んでいました。家計は六反歩程度の農業、父親が石工、兄からの仕送りと私の収入で戦時下でも食糧に特別困ることは無く、比較的恵まれた生活をしていたように思います。妹二人はともに女学校(旧姓)に進学、徒歩で瀬野駅まで出て広島市内に通学していました。直(す)ぐの妹「カヨコ」は比治山女学校三年生で大洲の中国電力(現在の中国電機製造株式会社)に学徒動員され、被爆死した次妹の「妙子」は市内白島の安田女学校一年生として通学中でした。
 
「妙子」が原爆死する数日前、近所の娘さんと私との三人で通勤のため自宅から瀬野駅へ徒歩で向かっていたとき、不意に「兄ちゃん。遊郭は何するところ?」と聞かれ、うろたえたのを覚えています。一緒に歩いていた娘さんは、小学校一級下の近所の佐々木ツギエさん、私は顔が赤くなって「うーん大きくなったら判るよ」と生返事をしましたがこれがこの世で最後の会話になろうとは、知る由もありませんでした。
 
後で判ったのですが、次妹は広島市内西遊郭付近の建物疎開に動員されていたのでこの言葉を耳にし、私に質問したようです。当時の私は徴兵検査もすみ昭和二十年九月六日には入営(兵種は情報兵)することになっていました。遊郭は何をするところかは知っていましたが足を踏み入れたことはなく、六才も年下の妹がこうした質問をしたので面食らったのです。その疑問は彼女が被爆死した後ではっきりしました。
 
運命の昭和二十年八月六日八時十五分。私は自宅の農具入れの納屋の二階六畳の部屋に勤務明けで寝ていてトイレにたったところでした。納屋にはトイレが無く母屋の東側の仮設小便器に向かって放尿していたとき、不意に近くにいた父親が大きな声で「アレを見い。アメリカの飛行機が飛んどるぞ。」と叫びました。当時しょっちゅう出ていた警戒警報もなく、変だなと思いながら父の指差す方向を見ると見慣れた米軍機B29がいつもの高度よりうんと低く飛んでおり、地元で「高城」と呼んでいる山の尾根沿いに南方向に飛ぶのが見えました。しばらくして飛行機からパラシュート状の白い袋状のものが幾つか落とされ、ついで飛行機が急降下したと思った瞬間、眼がくらむような赤紫の光とも輝きとも言えない鋭い光が目に飛び込み、同時に熱気をもった風圧で息詰まるような圧迫感を覚えました。ピカドンと後に呼ばれる原子爆弾の炸裂(さくれつ)の瞬間ですが私にはピッカ・ウッという感じでしばらく息が詰まった感じでした。米軍機による機銃掃射や爆弾が落ちて破裂する瞬間は既に呉線で乗っていた列車が空襲を受けたときに体験していましたが、この爆弾が原子爆弾であり、その破裂の瞬間であったことは当時知る由もありませんでした。
 
数秒後、母屋(おもや)の炊事場にいた母親が大きな声をあげ父と私を呼びました。母は、炊事場の窓からあの原子雲が一山を経た広島市上空にムクムクと昇つていくのを発見したのです。卵の黄身に血を混ぜたようなねっとりとした丸い大きな異様な気体。いわゆる原子雲が外側に少しずつ回転・膨張しながら上昇していき、その下に次々と垂直にどす黒い雲が湧(わ)きあがって行くのです。三人は何だろうと、初めて見る原子雲に声もなく見入っていましたが、そのうち母が騒ぎだしました。「あれは広島に爆弾が落ちたんじゃ。妙子とカヨコが広島におる。二人は無事じゃろうか。」という心配で取り乱して来たのです。大きな声で「今朝妙子が今日は頭が痛いから休む言うたのを学校の成績が悪くなると叱(しか)って送り出したんだ。」としきりに悔(くや)み、泣きはじめたのです。
 
二時間くらい経(た)つと、家の前庭から見下せる国道(旧国道現安芸街道)を負傷者を載せたトラックが西条(現東広島市)方面にたくさん走るようになりました。どのトラックも荷台におびただしい負傷者が載せられており、負傷して下車した人に聞くとほとんどの人が自分の居たところに爆弾が落ち、やけどと怪我(けが)をしたというので、一つや二つの爆弾が落ちたのではないとの噂(うわさ)でした。上の妹「カヨコ」は当日広島駅からすでに大洲の工場内に入り、敷地内の地下道を通っていたとき爆撃があったとのことで、当日午後二時ごろ無事な姿で帰宅しました。「妙子」は終日消息不明で、国鉄に勤めていた私はこの日は夜勤でしたが爆撃によって列車が運転出来ない状態だったので事情を話して翌日から休暇をもらい、翌七日から両親とともに広島市内で次妹を探すことにしました。
 
七日は市内中心部炎上中で近寄れない状態で、火災の少ない段原地区から電車通りに沿って宇品地区に入り、学徒が多数負傷収容されているとの情報で似島まで探しにゆきました。母が半狂乱のようにしきりに「妙子・妙子」と探していましたが発見できませんでした。
 
八日は近所の行方不明者が判明し、二十戸で構成の隣組が数人単位で探そうということになり、朝から近所の人七・八人で両親とは手分けして二手に別れ、私は海田市・向洋・広島駅前・白島を経(へ)て、まず妙子が通学していた安田女学校の校門まで辿(たど)り着きました。
 
広島駅西の常盤橋のたもとで赤ん坊に乳を含ませるような姿で死んだ母子を見たのが最初の死体でした。トタンの切れ端のようなものが申し訳程度に被(かぶ)せてあり、白島橋のたもとまで行くと多くの死体が川に浮いていました。岸辺で助けを求めて泣き叫んでいる多くの負傷者は形容出来ない凄惨(せいさん)さで、まさにこの世の地獄という感じでした。川に並行してかかっている白島の鉄道橋の上では蒸気機関車と貨車とが脱線し、復旧作業が行なわれており付近の枕木が燃えてくすぶっているのも見えました。鉄道不通のため旅行者は横川・広島駅間を徒歩で白島線の上を歩いており、川の中で助けを求める惨状を目にして救いの手を伸べようとする人もいましたが、瀕死(ひんし)の状態の人に抱き付かれ途方に暮れている人も見受けました。全く、手の施し様が無いという状態でした。私たちには妹など近所の行方不明者を探す目的があったので、申し訳ないという気持ちを持ちながらも、このような惨状には目をつむりながら安田女学校を探して歩き続けました。やっと白島町にたどり着き、学校を捜し当てたとき、校門、校舎とも焼けただれて跡形もなく、僅(わず)かに「安田女学校」の白い石の標札が瓦礫(がれき)の中に埋もれているのが見えたので所在地と判りました。ここで学校の関係者らしい人に「一年生はどこにいますか?」と質問したところ、中島本町付近で建物疎開の瓦運びに動員されていたとのこと。この的確な案内によって妹の遺体を発見することが出来た次第ですが、いま思えばこの方の案内がなければどうなっていたかと感謝の気持ちで一杯です。
 
中島本町を目指して市内を南に向かって進むと被災した陸軍幼年学校の校舎の一部が残っていました。校庭には大怪我(けが)をして気のふれたらしい生徒が軍人勅諭の冊子を片手に大きな声で唱和しながら大手を振り「歩調取れ」の行進をしていました。倒れては起き上がりそして軍人勅諭を叫びながら二・三歩進み、進んでは倒れ、また起き上がる。次第に気力が無くなり一、二歩進んでは倒れる姿はいかにも哀れでしたがどうすることまできませんでした。軍人はいち早くどこかに収容され、怪我(けが)をした軍人や死体に出会うことはありませんでしたが、幼年学校の生徒は放置されていたようです。近くの小学校の校庭(現在の基町小?)で中学生らしいわが子の死体を見付けた母親が焼けただれた制服の上から子供を抱きかかえ名前を呼びながら泣き叫んでいる姿が今でも瞼(まぶた)に焼き付いています。校庭には芋が植えてあり母親はたずねたずねて吾(わ)が子を発見した様子。カバンをあけ、弁当箱を取り出して死んでもの言わぬわが子の名を繰り返し繰り返し呼びながら泣き崩れていました。広島城のあたりを通ったとき、二抱えも三抱えもあるような大木が何本も根こそぎ倒れて燃えている様子やたくさんの軍馬の死骸(しがい)を眼にしました。人の死骸(しがい)は至る所に転がっていましたが軍人はこのあたりでも見かけませんでした。西練兵場を経て相生橋に至ったとき白島橋を渡ったとき同じことを感じたのですが橋の欄干が同じ方向に倒れているのを見て爆弾の威力の凄(すさ)まじさを感じました。十五キロも離れた山陰の自宅でのあの息詰まる感じの熱風が橋の欄干を一定の方向に倒している。凄(すご)い力だ。あの大きな楠(くすのき)の大木も根こそぎ引き抜かれている。まさに驚異的な力だと実感したのは橋の欄干の倒れ方を目にしたときでした。
 
相生橋の袂(たもと)の産業奨励館(現原爆ドーム)に勤務していた同じ隣組の女性(別所さん)も行方不明なので近所の人と共に探しましたがすごい壊れ方で探す術は全くありませんでした。早々に捜索を切り上げて相生橋を渡り中島本町から更に南へ進みました。一緒に歩いていた近所の人がこの辺りに西遊郭があったと言いましたので、妹はこの付近に来ていたのだ。だからあんな質問をしたのだなと初めて気付いたのです。十三才の女の子は、大人たちの言葉のはしはしを聞き、なぜこの建物の瓦を運ばなければならないのかが疑問だったのでしょう。 この付近の建物疎開では壊した家の瓦の片付けに動員された男女中学生たち五~六千人が連日働いていたとのこと。八月六日の仕事の準備中か作業開始直後に原爆の直撃をうけたのでしょう。爆心地に近いこの付近の惨状は筆舌には尽くしがたいものでした。子供のころ母に連れられてお寺で見た地獄絵そのものでした。ほとんど同じ姿・形・色で死んでいたのです。同じ場所で、同じ年頃の、同じ背丈の子供達が同じ作業をしていてあの強大な爆弾で焼き尽くされたのです。天から降り注いだ原爆は同じ条件であれだけ多数の子供を同時に焼き殺したのです。現場についたとき、いずれの子供も即死でないことが判りました。まず、何千度もの熱線で体を一気に焼かれた。夏に着ている白いシャツや白い上着、作業のために指示されてはいていた女の子のモンペ。これらの着衣の一重の部分は熱線で一瞬に燃え、露出した皮膚は黒焦げとなり着衣の二重の部分のみが僅(わず)かに残り、体のほとんどが焼けただれ、死体となって三日目ともなれば黒茶褐色の裸同然の死体となり、蝿(はえ)が取り付いてウジムシが湧(わ)いている状態。同じ姿の学童たちがるいるいと横たわっていたのです。
 
夏のため帽子は全員被(かぶ)っていたらしく、頭のてっぺん部分の髪だけは焼け残っていました。熱風による火傷(やけど)で目も焼かれて見えなくなり瀕死(ひんし)の学徒たちに追い打ちをかけるように周囲の建物の火災の熱風が押し寄せてきた。熱を避けようとしてしゃがんで手を握り締め屈(かが)んで避けようとした姿。握り拳(こぶし)を上に突き出した姿で息絶えた子がほとんどでした。防火用水の水槽のなかに火災による熱を避けようとしたのか片手を突っ込んだりして鈴なりになって息絶えている学徒がたくさんいました。
 
このような多くの学徒も私が現場に着いた八日の午後には次第に焼却されようとしていました。消火に使うトビ口の様なもので死体を積み上げては油をかけて焼く大人たちがいました。遺体は焼け跡の瓦礫(がれき)のなかに残ったわずかな道幅の道路に沿って並べられ、探しに来た人が覗(のぞ)きこんでいましたが、探している人の数より死体の方がはるかに多く、生きて動いている自分が申しわけないような感じで、すみません、すみませんと手を合わせながら祈るような気持で妹を探しました。百メートルも二百メートルの先までも延々と続く死体。私はある橋(鶴見橋?)の袂(たもと)から北の方角を向いたとき、二・三十メートル先のとある死体にかげろうがたっているように感じました。つかつかと無意識にその死体の側(そば)にしゃがみ込み、首にまつわりついて僅(わず)かに残っていた白いシャツの二重部分の切れ端の泥を両手でこ擦(す)って落としました。そして、そこに「六年 佐々木 妙子」と墨で書いた文字を発見、へたへたと座り込みました。「本当に妹なんだろうか?」。体は全身黒焦状態で、周囲の子達と全く同じように空に向かってしゃがみこんでこぶしを振り上げた姿。目だけが僅(わず)かに開いている。帽子を被(かぶ)っていたため髪の毛が僅(わず)かに残っており、いつも見慣れていた赤味がかった細い毛。身長や体の大きさ、腕や足の大きさ、長さ。腰まわりや足首の二重の部分に僅(わず)かに残っていたモンペの布切れが母に持たされた布切れと照合して一致したことから妹に間違いないと断定しました。
 
一緒に探していた隣組の人にその旨告げて連れ帰ろうとしました。死体を運ぶにはタンカが必要です。あの焼野ガ原にそんなものはあろうはずがありません。ムシロは死体片付けの人から分けてもらい、近くに適当な運搬具はないか探していたところ橋の近くに浅い古井戸があり、梯子(はしご)がかけてありました。それを引き出してムシロを敷き死体を載せていたところ、軍人のような人がやってきて「焼いてやるから骨にして持ち帰れ」と言うのです。そのとき私には母の声が聞こえてきました。私が妹を探しに出掛けようとしたとき「どんな姿になっていても見付かったら連れて帰れ」と厳命した母。そのことを説明して死体処理をしている人に了解してもらい、隣組の人と共にその場をたちました。いまでもはっきり覚えています。橋を渡ろうとして見えたのは旧市役所の建物でした。焼けた市役所の残骸(ざんがい)に向かって歩き始めたのは八日午後二時か三時頃だったと思います。妹の死を悲しむというより、見付かって良かった。母に妹を会わせることが出来る、といった感じで母に報告出来る喜びさえ感じていたように思います。
 
市役所の前から電車通りに沿って広島駅方向に歩き向洋駅に到着。駅には貨物列車が停車中でした。同郷で国鉄の知り合いの細川助役さんがホームにいたので事情を話し、石炭車のうえに隣組の人と共に載せてもらい瀬野駅で下車。自宅に連れ帰ったのは夕暮れ近くでした。葬式は八月九日。母の言い付け通り遺体を持ち帰ったものの炎天下で三日も経(た)ち、腐乱が甚だしくて余りの酷(ひど)さにわが子を抱き締めることも出来ず、小さな棺(ひつぎ)に抱き付きながらいつまでも泣き叫んでいる母の姿を見て、むしろ遺骨にして持ち帰った方が良かったかとも思いました。上の妹カヨコも私も「兄ちゃん、姉ちゃん」と遺体が呼んでいる感じで一晩中泣き明かしたのを覚えています。
 
近所でも数人の方が原爆の犠牲になりましたが遺体が見付かったのは妹だけでした。いまでも不可解なのは何故(なぜ)あの時あの遺体に触れ、シャツの切れ端の泥を落とし、そこに妹の名前が出てきたかという点です。数千ともいわれる数多くの動員学徒の遺体の唯一に触れて発見出来た。あのときの陽炎(カゲロウ)は肉親への呼び掛け「兄ちゃん。ここにいるよ。」の妹の声だったのでしょうか。
 
本人の墓碑は亡くなった石工の父が自ら作り死亡の日付を昭和二十年八月六日とし広島市安芸区中野六丁目の墓地に葬っています。母校の安田学園の慰霊碑にも刻名され、動員学徒としての丁重な取扱いを受けたと既に他界した母親から聞いています。国からの被爆者に対する丁重な取扱いにも感謝しています。
          
平成十五年九月二十五日記
  

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