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平和 
中川 忠子(なかがわ ただこ) 
性別 女性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1997年 
被爆場所 広島市(横川町)[現:広島市西区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 安田高等女学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
戦争がきびしくなり、二十年八月終戦を迎える。日本の国は物資も乏しく、貴金属、装飾品、蚊帳の釣手など供出しました。誰も考えていなかった原子爆弾が、広島、長崎に落ち、此れ以上の犠牲を出してはいけない、もともと勝てる戦争ではなかったのです。国の命令により、学ぶことよりも戦争の手伝いに刈り出され、私は学徒動員として横川のミシン針の工場で被爆しました。私は十五才でしたが、五十二年まえのあの日のことは今もはっきり憶えております、一生忘れることは、ありません。
 
「ピカッ」とオレンヂ色の鮮光が走り何も見えなくなり、しばらくして「ドドドオオオーン」と、大音響と共に建物が、レンガが、コンクリートが、爆風と共に頭に、体に、ようしゃなく落ちて、もくもくと黒煙で何も見えない、一メートルあまり吹き飛ばされて、時間が過ぎ少しずつあたりが見える様になり、くつもぬげてとんでいました。防空頭巾は役に立ちませんでした。ようやくの思いで工場の表の方に出て見ると、一軒の家もビルもなく、横川橋の左手の広島城の方向に火の手があがり、其の上、あたり一面臭気が鼻をつき立っていられなくて橋を渡り太田川におりて、己斐方面に向って泳いで逃げようと思いました。川には泳いで逃げる人々、死んだ人が流れていたり、岸には、たくさんの人々が水を求めてさながら枯れ木の林のようでした。やっとの思いで向う岸につき、竹藪に入ってそこに居合せた人達と板切れをひろって囲いを作り、助けが来るであらうと待っているうち「黒い雨」が降って来ました。
 
朝から何時間たった事でせうか、ぶきみな静けさのなか恐怖を感じながらも、おそるおそる川におりて見ると水が引いていて、傷ついてボロボロに焼けたり、皮ふがたれさがった人、死んだ赤ちゃんを抱きかかえ狂ったように泣きさけぶ若い母、ぺちゃんこにつぶれた家の下敷きになり目のまえで、助けることも出来ずに、みすみす見殺しにした父、母、子供ら、一瞬の間に地獄と化して、目をおおいたいと思いました。横川駅に出て線路を通って広島方面に帰らうと思い、長い三篠の鉄橋を渡る時は汽車が来ると思い、後を振り返り振り返り、気もそぞろで、下を見ると恐くて足がすくむ思いでした。汽車が来た時には逃ることが出来ません。枕木にぶら下っていようと考えましたが、はたして、体重を二本の腕でささえることができるであらうか、と思いながらせかれる様な気持で渡りました。「ときわ」橋を渡っている時、馬と兵隊さんが、血にまみれて死んでいました。広島駅の近くに来たら道がなく、降りつもった雪の様な、熱い灰の中を逃れて柳橋の方まで帰って来ました。国防婦人会のたすきを掛け白いエプロンをした人がおにぎりを持って来て下さり、朝から一杯の水も口にせず夕方になっていました。夕焼けの空をあおいでおにぎりを戴きながら、私は頑張った。神仏に守られて生かされたんだと、感謝の気持一杯で泣けて、泣けて仕方ありませんでした。
 
これは私の体験のほんの一部です。文字にも言葉にも表すことの出来ない恐怖の数々、悪夢のような事実です。このことは、戦争をしらない若者に、次の世代にかたりつぎ、心にとめおき忘れてはならないと思いますが、二度とこの様なことがあってはならないことです。核のない平和な世界であって欲しい、決して、決して、戦争を起してはいけない、心より節に、節に、祈ってやみません。
  
薄やみに、一人佇ずむ、母があり。
           
広島県安芸郡坂町  六七才  主婦
  

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