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被爆六十年を迎へて 
竹内 鈴子(たけうち すずこ) 
性別 女性  被爆時年齢 21歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 広島市(楠木町)[現:広島市西区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は昭和一八年に結婚して東京に参りました。
其の当時はまだ空襲が有りませんでした。
それからまもなく毎晩のようにB29との戦争でした。

私は東京が危いので広島へかへりました。
それからまもなく八月五日の呉の大空襲でした。
広島はそれまでなんにも有りませんでした。
安心してゐました。
よく考んがえて見たら広島は軍都でした。
広島には五つつの軍隊と十二師団が有りました。ほっておく事はないと思ってゐました。

忘れもしない八月六日が来ました。
其の日は八時五分に買物に行かうと思い約半丁ばかり行きましたが思いなほして家へかへりモンペをぬいだ時原子爆弾がばくはつしました。

目の前が真暗になり気が付いた時は台所の窓がとんで外から家の中がまる見へでした。
外を見ると火(ヤ)けどした人又は娘さんが体が半分やけどをし半分はモンペがやっとひっついてゐるていどです。
私も母に一緒にリュックの中へ夏ブトン入れ野宿をしなければと思いました。
そして逃げる途中で助けてと泣きさけぶ声がしましたがどうする事も出来ませんでした。

それから母と大しば土手まで来ました。
水が飲みたくて川へ水を汲みに行きました。
其したら川は兵隊さんがいっぱい死んで浮いてゐました。
丁度川向いは工兵隊が有り丁度其の時は朝の点呼ではなかったかと思いました。
それから土手までもどる途中三篠橋がボカンボカンとばくはつしてゐました。
生きた心地は有りませんでした。

母の所へもどった時母のそばに男の子が立ってゐました。
其の顔を見た時は私はゾットしました。
口ビルが上下三倍にふくれ上り又ホッペタが両方とも皮ふが三本にめくれて先が水ブくれにぶら下っていました。
余りのすごさに動く事が出来ませんでした。
恐らくあの子は生きてゐないと思います。

それから母とわづかばかり歩いた時B29がきかんそうしゃをしてきましたのでりっくサックを投げてひれふしました。
B29が去るのを待って舟で矢口まで渡してもらいました。
でも多くさんが目がウツロで体はやけどでまともの人はゐませんでした。
ほんたうに一シュンで家も人間もこんなにひどいとは思いませんでした。
私と母は家中にゐて風むきが良かったので助かりましたがまもなく家も焼けました。
それから母と志和口に家が借りて有ったので助かりました。

母は五月余りたってリサイ証明をもらいに広島に行く途中今紙屋町当時は西練兵場ですそこに兵隊さんのガイコツが多くさんコロがってゐたそうです。
二度と戦争はやってはいけないと思います。
  

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