私は一八才原爆投下の時、広島基町の陸軍病院の看護婦の生徒として机上の教育が終り実務に付いて病棟を廻って見習って勉強しておりましたが患者(兵隊さん)を疎開さすから、患者輸送に付いて行く様にとの命令あり、同行する。
疎開先より八月六日昼すぎ陸軍病院に帰院を命じられる。
広島市内まで帰る道はわからず途中歩いたりトラックに乗せてもらったりでやっと横川当りと思われる処で日も暮れていたけど人の(ウメキ声)が耳に入る。
建物は焼け火の海の様に思いました。
この有様で人が生きているだろうか?びっくりしました。
私は命令を受けている身だから病院に帰ること。
自分達の宿舎(西町兵舎)も跡形ない。身にまとう物も全部焼けている。
病院に帰る道もふさがれて全くわからない。方向を見て歩く。
助けて・・・・の声が耳に。水が欲しい。色々声が耳に入る。どうしよう・・・・。
病院も焼けたらしく正門のみが黒く立っていた。当りには死体があちこちとむらがっていた。
その後も命令にてあちこち、死体の収容し火葬も手伝う日もある。
又救護に出る日、あちこちの学校に収容されてる患者さんの治療に当る日もあり本当につらい毎日でした。
川崎君江、当時、西川でした。
(一)私は当時一八才でした。陸軍病院の看護婦生徒として陸軍病院に入職する。机上の教育は終り実務に当っていました。(各病棟の患者さんに計温とか他)
(二)入市となっているけど当日(八月六日)病院の命令を受け患者疎開に同行しました。患者さんを送り状態を見届く間も再度の命令に依り生徒数人引き返すことでした。
(三)何事も命令に依り毎日の行動が変りました。今日は被爆の者収容しトラックにて・・・・飯室の小学とか、次の日は亀山小学校とか、夏休みで学校が開いているので教室が病室に早変りしました。
(四)被爆された人の救護又は死体の片付け――山のふもとに運び火葬もしました。
(五)被爆された方の看護も――材料がないので困りました。
(六)自分も発熱あり、全身がしびれた感じで・・・・痛みもあり、身体、脱力感も・・・。その内に脱毛になりました。破傷風の様なケイレンもあるが休養も出来なかった。
(七)着る物が(私物)は全部焼ける。パンティ、一枚もない状態でした。軍服、ヘンジョ靴、雑嚢を身にまとい、自分は体が小さかったので軍服他全部大きくてカガシが歩く様。くつも大きくてはだしで歩く事も多々ありました。(足が痛かった)
(八)学校が始まる。あちこちの学校におられた患者さんを又集める様に命令ある。収容先、宇品の大和人絹跡、半分位こわれた建て物だったけど床が歩けば落ちる様な物でしたが大部分被爆された方を収容しました。一二月始め頃だったと思います。その収容先におられた患者さん、殆ど亡くなられ、一〇名位いでしたか、大竹海軍病院に移送しました。明年一月まで大竹病院に勤ムして、二月に宇品国立病院に帰りました。
国立病院開院されて戦地に出られて捕りょになられて、引上船で多くの患者さんが帰って来られ入院されました。
私の娘時代はありませんでした。
・昭和四五年一月 子宮、卵巣OPしました
・平成一九年一月 人工関節入れました
・平成二一年一一月 人工関節入れました 両足共に人工関節 歩行困難、杖で少し歩く
以上 |