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被爆体験について。 
須山 卓郎(すやま たくろう) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市舟入川口町[現:広島市中区] 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日のその日はいつもより早く幟町の自宅を出て八時前にわ勤め先の舟入川口町にある分工場の現場事務所に入りました。この現場事務所には分工場長と私と工業学校のときの同窓生の同僚の三名のみで、分工場の現場は年配の男子工員五名と女子挺身隊の年頃の娘さん一五名で光学用レンズの研磨材をつくり豊川海軍工廠に納めるため朝早くから操業していました。現場事務所は九時出勤でしたが、当日は私と前後して八時には私の同僚も出勤して来ました。そこで少し早いが二人で室内の掃除を簡単に済ませて、私は朝家を出るとき親父に頼まれた私用電話をする為に事務所の奥の柱に掛けてある磁石式の電話の受話器を外しハンドルを廻して信号を送り交換手を呼びましたが、丁度空襲警報の最中であったので交換が出て呉れません。仕方がないので解除を待つことにしました。当時はすでに空襲警報も連日連夜見舞われて人々も馴れこになっていて、ラヂオの情報を聞いて、B29の偵察や自分のいる町より離れた町の空襲であれば防空壕へ避難しなくなっていました。そして電話の前で待つこと数刻を経ずして空襲警報解除のサイレンを聞いて、いつもの習慣で事務所の柱時計を振り向いて見て八時一五分を知り前に向きなほし再び受話器を手にした、正にその時天地が裂けたかとピカッと光ったと同時に物凄い衝撃波を受け目の前が真黒になり、咄嗟に受話器のコードを引きちぎったまゝその場に蹲っており、始め何にが何だかさっぱり解らず、暫くその儘の状態が続き、土埃がおさまるにつれて少しづつ周りの様子が解りましたが、続いて起るかも知れない危険特に火災に恐怖を覚えると共に早く此処から脱出しなければと、同僚に声を掛けるとすぐ返事があり幸ひ二人共怪我もなく無事でしたが、事務所は元々仮設のバラックでしたので家は傾き屋根も天井も落ちてしまい哀れな姿となりました。工場の方もレンガの煙突は中間から崩壊し、作業場の屋根のスレートも壁も窓も枠込め吹飛び土間は足の踏入れようのない惨憺たる有様で室外で作業していた工員や女子挺身隊の人は熱線で身体の露出した処を火傷し又室内で作業していた人も飛散ったガラス片で切り傷を負っている状況でした。いづれにしても安全な処へ避難しなければと声を掛けて工場前の一段と高くなった堤防上の道路に集合することにしました。分工場長は出勤途中で被災したらしく姿が見えません。そして目と鼻の先にある本社からも誰れも来ません。幸い工場の周辺は今のところ火災の危険はないようですが、堤防上の道路から見た上流の市内は火の海で天高く黒煙が覆っています。風は上流方向でこちらに延焼の心配はありませんので皆んな集った道路上で負傷者の応急手当することにして、事務所や工員詰所より救急箱を探し出して来て治療しましたが当時の事です、ろくな薬はありませんが一応なんとか間に合いましたが火傷の薬がありませんので配給のヤシ油を塗布して手当をしました。 

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