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『14才の少年の広島被爆体験』 
佐藤 眞一(さとう しんいち) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2008年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市立中学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
「後ろめたさ」を背負って

イエス・キリストの弟子ペテロは、イエスさまのご昇天後三〇年ほど使徒言行録にあるような活躍をしましたが、それは一度はイエスさまを裏切ったという後ろめたさを背負った三〇年だったのではないかと思います。たしかに聖書によれば、イエスさまはガリラヤ湖畔で「汝われを愛するか」と三度も聞かれ、「わが羊を飼え」とペテロの裏切りを赦して下さっていたのですが、紀元三〇年頃ローマで殉教するとき、イエスさまと同じ十字架にかかることを拒んで、逆十字架にかかったという伝説は、ペテロは最後まで、イエスさまを裏切ったことに「うしろめたさ」を抱いて生きたのだと思うのです。
 
聖ペテロになぞらえるのはおこがましいことですが、私も広島の原爆で生き残ったという「うしろめたさ」を背負って六三年を今日まで生きて来ました。「うしろめたさ」の原点についてお話ししようと思います。

ささやかな体験    
 
私の話を聞いていただく前にお断りしておきたいことがあります。私にとって広島での経験は一生忘れられない出来事とはいえ、やはり六三年という年月は多くの記憶を薄れさせ、失わせ、残っている記憶にしても、どこまでが私の原体験だったのか、何が後から擦り込まれた記憶なのかはっきりしない部分があります。
 
ですから、可能な限り、私が体験したことだけをお話しします。それは本当に小さい範囲、短い月日の経験で、皆さんが持っておられる広島原爆についての知識から見れば、ごくごく限られた被爆体験です。
 
被災後の広島で、地域のため、人のためには何もしなかったし、原爆の悲惨さを叫んだこともなく、世界平和とか核兵器反対ということを叫んだこともない一少年の記憶です。この悲惨な出来事を容認された神さまのみ心を、未だに測ること出来ないかっての一四才の中学生の話だと思って聴いてください。
 
ただ、きちんと原爆の話を聞いたことがないという方のため、話の中で、原爆関係の資料的なことも少しだけお話するつもりです。

広島市の人口

現在の広島市は当時の広島市に比べ範囲が大きくなり、人口は一一六万余だそうですが、原爆当時の広島市は、太田川の下流一帯だけが範囲で人口四〇万人、原爆投下時の人口は、市民の県外への疎開などで人口が激減し、三五万程度だったと推定されています。

住んでいた牛田町

一九四五年終戦の年六月、私たち一家は、当時広島市の北の端だった牛田町に東京から疎開してきたばかりでした。
 
広島に住んでおられる方はお分かりでしょう。今の牛田大橋北詰あたりです。家の前には太田川の支流京橋川が流れ、けっこう水量のあるきれいな川でした。手長エビがたくさんいて、母親の髪のタボに使うネットで作った網で捕まえ、おやつにし、橋の上からは網でボラがとれ、父は会社から帰ると手拭いを下げて、川を風呂代わりにしていました。
 
わが家から一〇〇メートル程上流に陸軍工兵隊の兵舎があり、その前に「工兵橋」と呼ばれていた吊り橋がかかっていました。工兵隊の訓練でしょう、鉄の箱を二つ三つつないだ不思議な形をした船が川を上り下りしていました。工兵隊ですから、いざというときはつないで浮き橋にすると聞いていました。エンジンではなく、長い櫓でゆっくり漕いでいました。東京の空襲などで厳しい現実を少しだけ見てきていた私には、何とものどかすぎる光景でした。

石垣のある家

わが家は、上が道路になっている川の土手をとり込んだような建て方で、玄関がある道路側から見ると平屋、土手下から見ると二階建てという変わった家でした。下の階の部屋の壁はもろに土手の石垣でした。珍しい家でしたが、この建て方が祖母・母・妹の命を救ってくれることになりました。家の前の道路は、太田川沿いに広島で「奥」と云われている「祗園」とか「可部」とかの農村地帯に通じる幹線道路。一日中ガラガラと野菜を積んだ荷車や畑の肥料にする下肥を運ぶ車が通っていました。

市内爆心地に近い袋町にあった生命保険会社で会計課長をしていた父と、母、市内の広島市立中学二年に編入された私と、牛田小の一年の下の妹、それに呉から引き取った母方の祖母の五人で住んでおりました。私のすぐ下の六年生の妹は、早速学童疎開で高田郡という広島の郊外に疎開中でした。

私たち一家は、広島に来るまでは東京の郊外荻窪に住んでおりました。父も子供たちが
学童疎開すれば、首都防衛は大人の任務だと悲壮な覚悟をしていたようですが、しかし度重なる空襲、特に死者十万人と云われた昭和二〇年三月一〇日の東京大空襲を見て、首都防衛の限界を思い知らされたようで、観念して母方の呉に近い広島に来たばかりでした。

「僕、君」という東京弁が生意気だと言われたり、先生の広島弁がわからなかったり。いろいろありましたが、空襲のない平穏な日々を楽しんでおりました。

学徒動員に

原爆投下の八月六日は月曜日、私たち市立中学の二年生の六二名に、海軍関係の仕事をするようにと初の学徒動員がかかりました。我々の動員は継続動員とよばれ、当分続くはずでした。それまで中一や中二は動員がかからなかったのです。
 
七時頃の広島駅集合だったと思います。朝が早かったせいと、他の一・二年生徒は市内での作業なのに我々だけ汽車に乗って行くという不満と不安のせいで、皆ぶつぶつ云いながらそれでも第一日目ですからそれなりに緊張していました。
 
どんな服装をしていたかはっきり記憶はありませんが、勿論カーキ色の長袖の制服、長ズボンにゲートル、戦闘帽だったはずです。

市立中学生

原爆資料館に、人体に着せられ、焼け焦げた中学生の制服が展示されていますが、あれが私たちの市立中学の制服。被爆死した三名の生徒の着ていたものです。帽子とバンドは一年生の津田君、ゲートルは上田君、服とズボンは二年生の福原君の遺品です。胸ポケットのボタンは陶器です。

中一中二の仕事

同じ日の市内に動員された生徒たちの仕事は、市内に防火線を作るために引き倒された家屋の片付け。防火線というのは、現在の平和大通り一帯で、広島市を南北に分断し、火災の延焼を食い止めるため、密集している所の家を引き倒して作る広い道のようなものです。
 
当時日本全土で行われた学徒動員は、大学から国民学校高等科(小学校)を対象に決められた「決戦非常時措置要項」によって学生・生徒が兵器工場など戦争のためのいろいろな仕事をさせられたものです。しかし、中一中二については、「土地の状況、心身の発達を考慮し、小学校高等科に準じて作業種目を選び実施する」という政府の決定によるもので、動員の対象になっていなかったので、まだ役には立たないと考えられていたのです。今日の中一や中二とは比べられないほど体格も体力も幼かったのです。しかし、戦争の状況は厳しく、中一中二を温存しておけなくなり、軍の強い要求もあり、広島市では八月六日から中一中二に(おそらく小学校高等科も)動員がかけられるようになったのです。中学生の仕事は、引き倒された家の廃材やかわらを仕分けして積み上げる仕事。用意された道具は、二人で運ぶ「モッコ」というものくらいで、あとは素手でした。瓦のようなものを運ぶのは、手渡しリレーでした。

動員された生徒

八月六日広島市で動員されたのは、二万六千人、うち建物疎開に振り向けられたのは八二百人。この生徒のうちなんと無惨なことに六九百人、先生一一三名が犠牲になりました。陰を作ってくれる建物がない場所での作業で、警報が解除されていたので空襲に対する警戒は全く無し、ほぼ爆心地でしたから、私たちの市立中学では、一・二年生と引率の先生、今の平和公園の近く「小網町」天満川沿いで被爆、三一九名全員が悲惨な犠牲になりました。内一六五名はついに遺体も見つからず、現在も行方不明者に数えられています。一人も家には帰られなかったのです。

エノラ・ゲイのこと

後で知ったことですが、広島に原爆を投下した「リトル・ボーイ」とニックネームを付けられた原子爆弾を抱えたB29「エノラ・ゲイ」号は、サイパンの隣の島テニヤン島を深夜一時四五分すでに離陸していました。広島上空まで六時間三〇分かかっています。今だったら旅客機で三時間ほどの距離です。広島は快晴、朝の気温は二六・八℃だったそうです。
 
生徒たちが決められた場所に集合を始めていた頃、エノラ・ゲイは本土に接近し、四国沖を北上していたことになります。

トンネルの中で

広島はごく普通の平和な朝を迎えていました。朝一度警報が出ていたのですが、すぐに解除になっていました。広島駅に集合した私たちと引率の先生は、数日前に、当時の二年生二五〇人の中から、動員のために選ばれたのでした。確か、クジを引いたような記憶があります。これは軍の要求する動員人数に確実にこたえるためだったようです。仕事は芸備線の「下深川」というところの鉱山跡に海軍の機密書類を埋める作業だと聞かされていました。

我々の乗った芸備線三次行きの列車は石炭を焚く蒸気機関車が引っ張っていましたが、予定の七時三五分を少し遅れて八時過ぎに広島駅を発車、約一〇キロメートル走って原爆がさく裂した八時一五分、「戸坂トンネル」という短いトンネルの中を走っていました。満員だったため私たちが乗せられたのは郵便車だったそうですが、私はデッキの手すりにつかまってあのくさい石炭の煙に息をつめて立っていました。
その時ドーンという音といっしょに、風が激しくトンネルの中を吹き抜けてきて、私はデッキから落ちそうになりました。これがピカドンでした。私たちはトンネルの中でしたから、ピカは見なかったのです。トンネルを出たところで列車は停車。運転手が何か故障でもあったのかとあちこち列車のまわりを歩いて調べたりしていました。ちらっと空を見上げた時、快晴の空、高いところにキラキラ光りながら飛ぶ銀色の飛行機一機を見ました。多分それは原爆を投下後北上して行ったエノラ・ゲイだったはずです。対空砲火もなくゆうゆうと飛ぶB29を、警報は解除になっていたはずだと不審に思った記憶があります。

八時一五分

原子爆弾は平和公園のすぐ近く、T字型が上空からもよく見えた「相生橋」を標的に、九千五百メートルの高さから投下されました。原爆は標的から約三〇〇メートル東南に流されて、今の原爆ドーム東南一〇〇メートルにあった(今もあります)島外科という病院の上空六〇〇メートルで爆発したのです。
 
今平和公園と呼ばれているあたりは、中島地区と呼ばれいくつかの町があり、沢山の密集した人家や商店、映画館など、広島一番の繁華街。数千人の市民が生活する活気のある町でした。原爆によって町の人のほとんどは被爆死し、木造建物は完全に焼失、中島本町、材木町、天神町、木挽町などは町名と共になくなってしまったのです。平和公園を訪れられたら、かってそこは平和で賑やかな町と人の暮らしがあったことを思っていただきたいと思います。
 
平和公園はあまりにきれいに整備されすぎています。今あなたが立っているそこは公園ではなく賑やかな街の生活があったのです。
 
私たちがトンネルの外で見たエノラ・ゲイは同じ空路を飛んで午後三時にはテニヤンには帰っていたと云われています。

広島全滅を知って

私たちは「下深川」という駅で降りました。今の時間表では広島から三〇分になっていますが、当時はもう少しかかったかもしれません。ここで私たちは、呉の海軍工廠からやって来るはずの機密書類と作業用具を積んだ海軍のトラックと落ち合うはずでした。しかし、待てど暮らせどトラックはやって来ません。広島が空襲で壊滅したことなど引率の先生も私たちもまったく知りませんから、駅前で暇を持てあましながら、こんな田舎に行かされた不運をぼやいておりました。同級生の手記によれば、ここで持参の弁当を食べたようです。友人の弁当は、大根飯だったそうで、いつまでこの待機が続くか分からないから半分残そうかと思ったけど、この暑さでは傷んでしまう勿体ないと思って全部食べたそうです。当時すでに食糧難でしたから、白米だけの弁当などはなく、大豆や芋なら上等で、いろいろな野菜がごろごろ混ざったものが普通でした。

誰かの発案で、ラジオを聞いてみようということになり、近くの藤棚のある家でラジオを聞かせてもらうことになりました。ところが、雑音のほか何もニュース的なものは聞こえてきません。ただ聞こえるのはガーガーというノイズに重なって「こちら○○放送局。電波調整をお願いします」と繰り返す、せつぱ詰まったような口調の男の人の声でした。私は「広島放送局」だと思っていましたが、JOFK広島放送局のビルは爆心地中心部流川にあり、職員三四名も殉職されたはずですから、大阪放送局が広島放送局を呼んでいた声だったかも知れません。

これは何か起こったに違いないと、皆が不安になっていた時に、広島発の後続列車が到着しました。汽車に乗っていたのは、広島駅近くで被災したか、奥へ向かって避難していく人たちでした。駅舎から出てきた人(怪我をしている人もいました)によって、「広島は空襲で全滅した。今広島は燃えている」と聞かされた時は、今で言えばパニックです。信じたくはないことですが、広島駅の近くで被災した列車と乗客の姿は、本当に大事が起こったことをはっきり物語っていました。降りて来た人を取り囲んで、てんでに自分の住んでいる町名を告げて、様子を聞こうとしました。今でもはっきり覚えているのは、同級生から一目も二目も置かれていた今流に言えば番長的生徒が、「お父ちゃん。お母ちゃん。俺は何にも親孝行してないよー」と号泣した姿でした。乗客の話の中に、彼の家族が住んでいた町の名があったのです。みんな今から見れば幼い中学二年生です。ぼう然としたり、ただウロウロしたり、泣いたり。

何とかして広島に帰らなければなりませんが、どうしていいかわからずウロウロしているうちに、午後になって広島に向かう汽車が来ると聞きました。広島までは行けなくても行けるところまで行くということでした。この汽車は走っては停まり走っては停まりしながら、広島のひとつ手前五キロメートルの駅「矢賀」まで私たちを運んでくれました。
 
こんな状況の中、燃えている広島に向けて汽車を走らせるなんて国鉄マンはすごいなと感激した記憶があります。

被爆電車のこと

同じようなことが市内電車でもありました。この時間通勤客を乗せた市内電車も被災し、多くの乗客・乗務員が犠牲になりましたが、市民のために役立てようと、生き残った関係者が徹夜で、線路をまっすぐにし、架線を修理し、車体を応急修理し、三日後に一部区間で電車を走らせたのです。この電車は六三年たった今も二両が「ひばく電車」として宇品線などを走っているそうです。当時このような公共の仕事に携わっていた人々の使命感の強さに心うたれます。

帰ってみれば

「矢賀」からちょっとした山を越えれば広島に入れるということでした。もう日は暮れかかっていました。一〇人ほどで歩いたことのない道を無言で歩き、ここから下れば饒津神社に出るという小高いところからまでたどり着いたとき、見下ろす広島の町は、今もはっきり覚えていますが、燃えるものはすでに燃えつきて、ただ一面まだ火の消えない風呂のおきを地面にぶちまけたような光景でした。その明るさの中に、はるか町の中心地のいくつかのビルだけがくっきりシルエットになって見えました。その火の中で何があったか想像も出来ない十四才にとって見たことのない光景でした。町に降りてみると、まだ、熱気の残っているどこまでも広がっている焼け跡には、こんなにあったのかと思うほどの土蔵と重そうな大きな金庫が黒い影になっていました。人に出会った記憶はありません。
 
京橋川沿いにようやく牛田町にたどり着いてみれば、覚悟していた通り、牛田の家並みも我が家も跡形もなく燃え尽きていました。道を隔てた川原に、母と祖母と下の妹がいました。母が眞一が帰ってきたとき我々がここにいないと心配するだろうからと、河原にたたずんでいたそうです。私は憶えていませんが「お母さん」と云いながら手を広げて帰ってきた兄ちゃんを憶えていると妹は話していました。

母を助けるか、娘を助けるか

母と祖母と下の妹は、三人とも爆風で倒壊した家の下敷きになったのですが、熱を出して学校(当時小学生は午前中だけ地区ごとに集まって寺子屋授業をしていました。)同じ町内の金光教の教会所が教室だった学校を熱を出して休んで自宅の一階石垣の部屋で寝ていた妹は、土手の石垣と倒れかかった家の透き間にいて助かり、母は妹のために炊いたおかゆを持ったまま落ちてきた二階の下敷きになり、祖母は崩れた二階といっしょに一緒に落下。まず何とか自力ではい出した母が、火の手が、わが家にやって来るまでに何とか祖母と妹を引きずり出そうと、手伝ってくれる人もなく、道具もなくただ一人素手で立ち向かったのです。
 
祖母も妹も母の名を呼んで助けを求めるなかで、母と娘をどうやって助けよう。もし一人しか助けられないのなら、それは母なのか娘なのか。母には妹に向かっては母という立場と、祖母に向かっては娘であるという立場がありました。結局祖母から引き出そうということにしたつらい決断について、その時のことを思い出し、泣きながら話してくれたことがあります。「近くに火の手があがったから早く逃げて」という声に追われながら奇跡的に二人を引きずり出した母は、口から血を流している祖母を背負い、妹美礼子の手を引いて、一面爆風で壊れた窓ガラスだらけの道路を歩いて裏の「工兵山」(今東区スポーツセンターのあたり)に逃れ、木陰に身をすくませていたそうです。幸い三人とも足の裏を含め、ほとんど怪我をしなかったのは不思議なことだった、また母の話ではこのとき黒い雨に遭ったと云っていました。そして夕方、動員から帰ってくるだろう私を待って、家の近くに戻っていてくれたのです。

六日の夜は野宿

「今晩はここで寝よう」と決めた川原の向こう岸では、夜になっても赤々と火が燃えていました。軍の資材倉庫が倒れ、中にうずたかく積まれた木炭が燃えていました。身にかける布一枚無く野宿する私たちにとっては、暖かい対岸の火事でした。
 
気がかりなのは、まだ帰宅しない父のことでした。父は朝七時過ぎに家を出て市電「白島線」で市の中心部「袋町」に出勤したままでした。この十四才はことの深刻さが全く分かっていませんでした。
 
焼け跡から掘り出した茶釜で、これも掘り出した焦げた米でご飯を炊いたり母はさながら「先代萩」だなと云ったりしていました。
 
「先代萩」とは仙台藩のお家騒動が舞台の歌舞伎で、藩主の子鶴千代を育てる乳母の政岡が、毒殺を恐れて茶釜でごはんを炊く有名な「まま飯炊き」の場。「腹が減ってもひもじゅうない」という鶴千代の台詞とともに、今の境遇を歌舞伎になぞらえ、私たちには、空腹を我慢しろという意味もあったのでしょう。「腹が減ってもひもじゅうない」は当分我が家のギャグでした。歌舞伎を地でいく強い母でした。

父をたずねて爆心地の袋町へ

翌七日も抜けるような晴天でした。呉から訪ねてきてくれた年上の従兄弟と市の中心地へ父を捜しに行くことになりました。神田橋を渡り、市電の白島線の線路をたどることにしました。袋町まで約二キロメートルほどでしたが、そこで見た光景は表現することのできない悲惨を極めたものでした。まだ後片づけも何も始まっていない時間です。道路の中央は市電の架線にふさがれて歩けません。端を歩くと、そこには死体が累々と横たわっていました。防火水槽に寄りかかって息絶えている人、中には水槽の中に頭を突っ込んだままの遺体もありました。八月の朝です。いつもなら響きわたっているはずのいきいきと生きている町の騒音はまったくありませんでした。真夏のぎらぎらした光の中に物音ひとつ聞こえないのです。まさに死の静寂です。

途中から従兄弟が、「練兵場を通って行こう。近道だ」と言います。かっての西練兵場は、今広島城のあるあたりか、基町の高層アパートが建っているあたりだったと思いますが、死体をまたいで電車道を歩くよりはいいかもしれません。後で当時の地図を見ると、西練兵場の手前には、歩兵師団の兵舎が立ち並んでいたようです。平常なら入れないところですが、確かに通り抜けられそうでした。しかし、そこも状況は同じでした。いや、もっと恐ろしい光景がありました。ちょうど兵隊さんの朝の体操の時間だったようで、上半身裸の兵隊の死体が沢山残っていました。地面に倒れたままのもあれば、少しでも木陰をと思ったのか、練兵場の回りの植え込みの下には死体が折り重なっていました。ここを通り抜けて電車道に出てみるとまた死体、腹のふくらんだ馬の死体もありました。死体が恐いという神経のフューズはとんでしまっていました。

父を呼ぶ声

市電の線路に沿って建っていた父の会社は、鉄筋コンクリート三階か四階の建物で、火はもうおさまっていましたが、内部は真っ黒に焼け焦げていました。しかし、私も従兄弟も玄関から一歩も中に入ることができません。この黒々と焼けた室内に何があるのか。今朝からいやというほど見てきていましたから、入って父を捜す勇気はありませんでした。ただ入口から父の名を呼び、「おったら返事せい」と叫び、あとはただ耳を澄ますだけでした。返事がないことで、父はどこかへ避難して生きているかもと思い込もうという心理もあったのでしょう。一番肝心の内部を確かめずに、「お父さんはいなかった」という報告に、母はがっかりしていました。まさに子どもの使いでした。

父の死

結局父の遺体は、その翌日八日呉から来てくれた叔父によって、会社の建物の裏庭で発見されました。窓ガラスの破片を全身に浴びた姿で失血死だったそうです。父の遺体は、その場で壊れた机や家具などを燃料にして茶毘に付し、一握りの骨になって母のもとに帰ってきました。この叔父は、一〇年ほど前に亡くなりましたが、あの時一人で私の父を火葬にした時の恐ろしかったことを、何度も何度も私たちに語ってくれました。そしていつも最後には、「怖かったでよう」と言っていました。祖母は次男であるその叔父に背負われて呉に帰っていきました。

あのような状況の中で、死体が見つかったこと、本人と確認できたこと、肉親の手でちゃんと火葬にできたことを回りの人々からは「よかったね」と云われました。人の死に関して、「よかったね」は本当に変な表現ですが、その上我が家は父一人だけの犠牲でしたから、これもまた「よかったね」と云われました。母はそうではなかったでしょうが、私は父の死で涙を流した覚えがありません。

「お父さん」と呼んで泣くタイミングを失っていました。肉親の死はごく当たり前のことでした。

焼け跡での生活

何日か河原で野宿したと思います。問もなく軍による救援活動も始まりました。あの頼りないと思っていた工兵隊の櫓こぎの舟が、軍用の乾パンの箱を運んできて、河原に投げ上げてくれたりしました。私たちは、普通では滅多に口に出来ないこのおいしいプレゼント、二つえくぼの陸軍乾パンに無邪気に喜んだものです。市内にはあちこちに軍の資材倉庫がありました。軍の施設ですから、平生は誰も何の倉庫か分からなかったのですが、建物が焼けてみると、焼けてふくらんだ缶詰の山が丸見えだったりしました。軍の缶詰にはラベルがありません。開けて見たくても缶切りがない。風呂敷とか袋もないので、持ち帰れる量は知れています。こんな宝の山を求めて、噂をたどって焼け跡をうろうろしたものでした。
 
遺体を集めて焼く作業が始まり、終日煙が立ち上っていました。遺体を遠くへ運ぶ手段はありません。焼け跡ではあちこちに細長い穴が掘られ、何体もの遺体が並べられて、焼け残りの木切れを燃料に火葬されていました。ほとんど名前は分からないと云われていました。焼いてもらうには焚き物を持って来いと云われるという話も聞きました。

牛田の土手の道は、広島の郊外祇園の方面に行く幹線道路でしたから、ぼろぼろの着物のままで、上流に向かい郊外を目指す人の列が続いていました。近くに手押しポンプがあり、そこで水を飲もうという人が列をつくっていたり、逆に郊外から食料を背負い、市内の親類を訪ねようと市内に向かう人も大勢通りました。ポンプの回りで、「どこはどう。あそこはどうだった」と情報が交換されたりしていました。届ける相手がいなかったからと、道端にいた私がおにぎりをいただいたところが、もう傷んでいたという記憶があります。連日暑い日に苦しめられました。
 
前の京橋川には、死体が多量のゴミといっしょにいくつもいくつも浮いていました。潮の満ち引きにつれて同じ遺体が川を上り下がりするのです。私たちは、岸に流れ着きそうな死体を木切れで流れに押し戻しました。引き上げても処理することができません、火葬する木材がなかったのです。

悲しい作業

だんだん焼け跡から遺体の収容も始まりました。妹が登校するはずだった二、三軒先の金光教の教会の焼け跡から、児童の死体らしきものがいくつも掘り出されました。消火活動などは全く行われず、燃えるに任せた場所でしたから、子供の死体はほとんど燃えつきて、焼けた小さな木の根っこのようになっていました。そんな遺骸をたらいに入れて「うちの子供がこんなになってしまった」と親が泣きながら運んでいる光景を覚えています。妹は人形を運んでいるのだと思ったと云っていました。

原爆症の恐れ

このような、さあ復興だという時期に、不気味な被爆による死が忍び寄ってきていました。激しい嘔吐・下痢、身体がだるい、いろいろなところからの出血、急性の原爆症です。わが家の近くでも、元気に後片づけをしておられた方が、次の日には亡くなられるということがいくつかありました。それは実に不気味な話でした。当時ラジオでニュースを聞いた覚えはありません。情報はすべて噂です。しかし、早い時期に原子爆弾(軍は特殊爆弾と云っていたようですが)だったという情報は流れていて、出血や脱毛が起こり、死に至る病気なのだということも伝わっていました。

なかでも、最も恐ろしかったのは、六日のピカドンに会わなくても、投下直後から広島に入市した人にも、原爆症が起こるようになったことでした。おにぎりを担いでたった一日入市した人や、後片づけに入市した郊外の警防団の人にも症状が出たという噂に、母も私も、我々も早晩原爆症で死ぬのだと覚悟していました。なぜなら、私たちはしばらく牛田町の焼け残った家の一間を借りて生活していましたし、焼け跡の缶詰や京橋川の魚を焼いて食べたり、宇品の焼け残りのレンガ建てのビル(現在の広島市郷土資料館)に移転していた市役所に、父の死亡届けや罹災証明書やあれこれの手続きに行くなど、百年間草木も生えぬ死の町と云われた炎天下の広島の焼け跡を歩き回っていましたから。
 
数年は、死に怯えていたわけではありませんでしたが、死を身近かに感じて生きていました。
 
しかし、その母秋子は三三年間強く強く生き、私たち三人を育て上げ、父の死の三三年後、七九才で天寿を全うしました。命日も父の命日の翌日八月七日でした。

校庭の弁当箱

何日たってからでしょうか。私たちの広島市立中学の建っていた中広町に行ってみました。校舎はそのまま爆風で隣りの畑に吹き飛ばされ、そこで燃えつきたということで、校舎があった痕跡は見事なほど何もありませんでした。記録写真にはまだ完成していなかった体育館の鉄骨がありますが、全く覚えていません。
 
校庭の隅にアルミの弁当箱が並べられていました。家の引き倒しの動員に出ていた一・二年生が、暑さで傷まないようにと、どこかの防空壕に置いていた弁当箱でした。当時の弁当箱はアルミ製で、名前は釘で彫り込んでいありました。誰かが集めて持ち帰ったものの届けるすべもなく、校庭に並べて置いたのでしょう。炎天下、多くの生徒が被爆死した校庭に残されたお母さんが作ってくれた弁当箱の整列は、鳥肌が立つような光景でした。

間もなく、原爆の毒で百年草木も生えない死の町といわれた全市に、ハエが大発生しました。あちこちに焼け残っていたものや掘っ建て小屋に黒いペンキを塗ったように、ビッシリ止まっているハエを見て、ハエが生きられるのなら、と嬉しかったことを思い出します。

私たち一家は、間もなく母の実家を頼って呉に移りました。四六才で中二小六小一の三人の子供を抱え寡婦になった母にとって苦難の年月の始まりでした。
 
呉に移ってから数年経ったころ、一度だけ八月六日に広島に出たことがあります。ここにもかしこにも、道端や川原やあらゆるところに線香が供えられ、その煙が爆心地をもうもうと覆っていました。まだ、大々的な原水禁・原水協の抗争も、灯籠流しも始まっていなかった八月六日の印象は、もうもうと立ち上るおびただしい線香の煙と、道端にうづくまってじっと手を合わす人々の背中だけでした。

グアムで働く

一九七五年から八〇年まで、私は家族とともにグアム島に渡り、アメリカ聖公会の教会で働きました。グアムは大宮島と呼ばれていましたが、一九四四年太平洋戦争末期に、米軍に占領されて以来、アメリカの重要な軍事基地です。島にあるアンダーソン空軍基地は太平洋戦争中は日本空襲の基地でもありました。そこで働くことには正直なところ複雑な気持ちがありました。私を受け入れるグアムの教会側にも、私が広島のヒバクシャであることに戸惑いもあったようです。二年のプロジェクトが五年になり、帰国間近に、広島に原爆を落としたエノラ・ゲイの離陸したテニヤンに行ってみました。サイパン島からは小さなプロペラ機でした。空港といっても名ばかり、茂みの中のただのトタン小屋。そこらにいた島の住人が「骨あるよ」と声をかけてきました。日本から遺骨収集団が来ておられた頃です。かってB29がずらっと並んでいただろうテニヤン飛行場は一面タンガンタンガンという灌木の原っぱ。その中にコンクリートの滑走路が残されていました。そのかたわらに「エノラ・ゲイ離陸の地」という小さなプレートが置かれていました。まさに「夏草やつわもの共が夢の後」でした。かって原爆症を覚悟して一年刻みの年月を送ったかっての一四才少年は四九才になり、白く伸びる滑走路のかたわらに立っていました。

記憶をつないで行くこと

最後に、原爆の記憶もこの世の出来事、悲しいことですが一年一年風化していきます。人々のさまざまな思いも風化していきます。風化させているのは私たちです。

聖書のお話ですが、給食の奇跡の意味を理解できない弟子たちに投げつけられたイエスさまの苛立ったお声「心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」が聞こえてきます。私たちは出来事の本当の意味が悟れないままに風化させていきます。

今広島でも沖縄でも被爆体験の継承が難しいことが問題になっているように、出来事の記憶をつなぐことはとても難しいことです。どうすればいいか私に名案はありませんが、今度広島復活教会に、復活教会につながる原爆犠牲者の名を刻んだプレートが掲げられることになったそうです。素晴らしいことだと思います。

どのような時代になっても、世の人が原爆の記憶を失っても、進む道を誤ることがあっても、復活教会は広島原爆をかたくなに記憶する教会として存在し続けて欲しいと願っています。
  

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