あれから早くも四十三年が来ようとしています。これまであえて口にすることを拒んでいましたが、私も六十才も過ぎ、ここ二年前より体の不調を覚えると、やっぱり原子爆弾の恐さを感じ思い出します。
毎年八月六日の平和公園での記念式典は、必らずあの時刻八時十五分テレビのチャンネルを押して見ています。私自身受けた切傷、火傷が余りにも大きく、又原爆を投下した米国に対し、いきどおりがおさまらないのです。僅か十八才で頭の切傷から、背中、腰、両腕、両足の火傷又女で一番傷つきやすい顔までも火傷、体の裏側を後方より、猛烈な閃光をあびました。
広島市に一発の爆弾を投下されたのです。
この爆弾はTNT高性能爆薬二万トン以上相当する原子爆弾です。高度五百六十メートルで爆発した原爆は瞬間、直径五百メートルの範囲を一万度の高熱で包んだのです。
太陽の中心温度(六千度)の約二倍、発生した圧力は数千億気圧と言われ、これが時速八百キロの爆風を生じさせ、想像を超える世界が広島市民の頭上に文字通り、降りかかったのです。この瞬間の現象を今知ることはできないのです。高熱と高圧、高放射能下の状況を証言出来る人は、この世に実在しないからです。
住友銀行広島支店(中区袋町)玄関前の石段に残った「死の影」(現在原爆資料館に保存)の主人公と同じように消えてしまっているのです。影さえも残さないで、無数の市民が死んでいったのです。原爆の火球に包まれた人々はおそらく瞬間の、「空」だけを知覚したのではないでしょうか?それですべてが終った。
直撃をまぬがれたとはいえ、やけどや、放射能に、さいなまれてその日のうちに、あるいは、数日ののちに多くの市民が死んでいったのです。
今でこそ「放射能症」の病理的解明が進んでいますが、調査時点では「ブラブラ病」などと呼ばれるだけで、原爆との因果関係がはっきりしなかったのです。放射能にやられた人は髪が抜け、歯ぐきから出血し、ポックリ病のように、あっけなく死んでいったのです。
外傷もないのに体がだるいと訴え、その翌日死んだというケースはザラなのです。しかも現在もなお続いていることを思えば、原爆の被害は計算しきれるものではないのです。
即死をまぬがれても放射線、熱線で重度の火傷を負った人、火傷しなくても例外なく強烈な放射能に全身を打たれた人、血小板(血をかためるもの)白血球の激減、内臓出血は、初期の顕著な放射能による症状だし、一週間、十日後に頭髪が抜け落ちたのも放射能の影響だし、消化器官の障害も大きく、出血を伴う下痢患者が続発したため、医学関係者の中には「伝染病が発生したのではないか」と疑った人もいました。病理学的にも未知の既存の医学知識では処置しようのない世界が突如として出現したのです。
爆発五分後から市中に点々と煙が立ちはじめ、三十分後にはかなり大きな火災群が見られ、あちら、こちらにパァーンパァーンと、音を立てるそれが全市に波及し、午前十時から、午後二時頃が最盛で、夕方になってやや衰えたが、業火は夜空を焦がし、市内一帯火の海で翌七日午前十時頃から部分的となり、宇品、大河、江波など周辺地区を除いて、爆心地から二キロ以内は円を描いたように焼たのです。
私は爆心地から東方約一・七キロの所に、第二総軍司令部(現二葉の里、旧陸軍騎兵隊跡)に軍属として勤務していました。
第二総軍は昭和二十年四月本土決戦に備え畑俊六大将を軍司令官として創設され、西日本、中四国を統括したのです。参謀部は平地木造三階建ての中にありました。
私は女学校を卒業しますと、徴用がかかるので、宇品に陸軍運輸部、船舶司令部第六四〇部隊経理部より、第二総軍司令部に転属したのです。
年令十八才旧姓久都内智子(くつないさとこ)うら若き乙女でした。何時もと変りなく高陽町中深川(安佐北区深川)より汽車にて広島駅まで乗車し、それから司令部まで歩いて十分かかります。今日も良い天気になり午前七時の気温は二七・四度今日も真夏の太陽がじりじりと、照り始める。
服装は、薄地のジョーゼットの水色半袖ブラース下は黒のチェックの銘仙をモンペに作り直したもの、帯心で作ったカバンを肩から腰に斜めに黒の防空頭巾と一緒にかけ、今日も又出征している兄に負ないよう頑張ろうと張り切っていました。家には母と叔父夫婦と幼児に十才の男子(晋二)が疎開していました。
司令部の入口には守衛さんが交代で監視しておられました。
佐官以上は馬で尉官以下は徒歩が多かったと思います。私は兵器部内で永田軍曹と庶務係として勤務していました。兵器部長の森田中将、染瀬大佐、黒田中佐、中島少尉、伊川曹長、久保曹長、永田軍曹、別府伍長、中村伍長、女性では、内藤さん、浜田さん、高東さんに私です。タイプの山崎さん、あれから音信不通です。原爆の後遺症など出ませんか?
八月五日の夜から警戒警報、解除、空襲警報、又解除の繰り返しが三度繰返されたのです。警報のサイレンが連日鳴っても広島市が空襲を受けたことは一度、四月三十日午前七時前に広島市小町の中国配電(今の中国電力)の周辺に、B29一機が十発の爆弾を投下し、死者十人、負傷者十六人出したことがあるけれど、それ以来空襲を受けたことはないのです。
この時もたった一機のB29が飛行機雲を引きながら、広島湾から市内に入りそのまま北進し、県中部を旋回し播磨灘方面に消えてゆく「またか。」「何を偵察しているのだろう。」同じ軍都の呉市は、何度も空襲を受けたのになぜ広島市にだけ爆弾を落とさないのか?漠然とした不安は市民皆もっていたと思います。
広島の上空からB29の姿が消え、警戒警報は解除された。今日も平穏な一日が始まろうとしていたのです。
掃除したバケツの汚水を捨に外に出ていたその時、猛烈な閃光が、ピカット、光った。空が急に明るくなって、熱い熱風がサァッと私の顔、体を押します。爆風は勢があり、次第次第に私は小走りになっていました。足を止めようにも足が止まらない。爆風に体をまかせ熱いと思っても言葉にならない。どうしたのか?と後方を向きたいけど向けない。それほど強い熱風でした。とうとう兵舎の軒下までとばされて、そこでああこれでおしまいかと思いながら眼を閉じてうずくまりました。どれだけ時が過ぎたかわかりません。
気がついておそるおそる眼を開き、頭を上げて見ると粉々の建物の破片を浴び瓦の破片も落ちてきます。しゃがんでいた時間は短かったのか、長かったのかわかりません。
ぼう然と立ちあがって、眼を凝らして見ると、もうもうと立ちこめた塵埃を通して、今まであった建物が倒れくずれて、樹木も電信柱も倒れ見通しは、ききませんでした。
少しそのままでいますと、私の目の前の防空ごうの上に人がいるのです。兵隊さんが一人ごそごそ動き出したのです。窓ガラスでけがをしたのか、血だらけです。部屋から爆風で飛ばされたのでしょう。
私は歩いてみると歩けます。部屋の中は暗く部屋にもどる気もせずそのままお茶沸かす建物もこわれ、その横を通り抜けて正門の方東練兵場に向きました。歩いていますと何か足にまとわりつくのです。足もとを見ると、モンペの後側が焼け焦げて前側にぶらさがって、足もとにまとわりついて足もとが重いのです。
上衣を見るとブラァースはなく肌着のジュバンだけになって焦げくさいのです。何とかしなくてはと、あたりを見ると、丁度都合よく兵隊さんの国防色の肌着(シャツ)がころがっているのです。私は埃で汚れているのもかまわず、すぐ手を通しました。モンペはそのままでしたので今思えば後側はシミーズも焼け焦げてパンツのみだったかもしれません。
東練兵場の野原に向いました。石があったので石の上に腰掛け、同僚や部内の兵隊さん達を見のがさないよう眼をみはっていました。
ようやく避難する人々で路上がごった返しはじめる。無残な被爆者の群が郊外へ郊外へと続く。路上で被爆した人は言うまでもなく、木造家屋の中にいた人でも、戸障子を開けていたため、熱線をモロに受けた部分はひどい火傷で、爆風と炎に衣服は、はぎとられ、半裸かそれに近い姿で黙々と歩いてゆく。全身まともな者はなく、火傷して悲惨そのものです。土埃の頭髪、唇は上下とも腫れあがり、目玉だけギラギラとこわく、手の指は軍手をはめた如く太く一本一本が火脹れて皮膚がたれ下っているのです。郊外の親戚をたよって避難するのでしょう。
空を見上げると青空はなく土と埃のどんよりと曇った空で遠くの方でパァーンパァーンと言う音、建物の燃える白煙がちらちら立ちのぼるのが見えるのです。空襲にあったのか、早く火を消さないと市内に広がるのに、皆防火訓練しているのになぜ早く消さないのであろう。私は怪我をしてるけど、私達の所だけやられている、他の所は元気なのだと思っているのです。
知てる人が来ない。右も左も見てもいない皆何しているのか知らん。どれくらい時間が過ぎたか四十分位も過ぎたでしょうか、足がチリチリ痛むのです。おかしいなと足に眼をやると、足の皮膚がジワジワと縮んで皮の下に水が溜り、水腫が出来ているのです。両腕両足の裏側がなっているのです。痛い、痛い。顔の頬も痛む。誰か知っている人はいないかと又あたりをみる、ああいた。ずっとずっと向うにいた。永田軍曹が高東さんを背負うている。高東さんは腰を痛めているらしく、大きな声を出して呼んだけど聞えないらしい。
歩いて行きたいけどもう一歩も歩けない。どうしよう。右足を引きづりながら、誰かと確認出来るまで近づくのに、歯をくいしばりながら歩いた。「高東さん、永田軍曹」「おお元気だったか」と、振り返り声をかけて下さった。よかった、会えてよかったと喜んだものです。無傷で元気な人は、永田軍曹と久保曹長らしく染瀬大佐は窓際におられたのでガラスの破片を顔に受けられ一番ひどく病院に運ばれて手当を受けておられることを知りました。それから二時間位して救護班が出来て、テントが張られ「傷の手当をするから集まるよう」にとメガホンで呼びかけがあった。でももう一歩も動けないのです。行列して並ぶことなど出来ない。傷の軽症の人のみぞろそろ行きます。私はその人達を眺めているだけでした。口の中がザラザラ砂が入っているので、つばをはくと、血がまじっていました。歯ぐきから出血したものでしょう。そのまま草原におりました。時間がわからない。私の腕時計を見ると八時十五分で止っています。夕方近く東照宮の松林の中の松の根のでこぼこ地まで背負ってもらいそこで横になりました。伊川曹長も腰を痛められたようでした。柱の下敷になられたのでしょう。
三人で頭を並べて横になりそこでムスビを一つづつ配られました。お腹がすいていたのでしょうけどそんなこと忘れていました。でもムスビはおいしく食べましたが白くは感じられず薄暗いからか玄米のように感じました。
あたりはだんだん暗くなって雨がポツリ、ポツリ降り出し顔に当るのです。でも幸にすぐ雨は止み安どしました。
司令部正面の二階には菊花の紋章が夜空にくっきり見えます。でも建物はもう長くはもちこたえること出来なく、黒煙がもくもくと立ちこめております。もう第二総軍司令部も駄目でしょう。皆避難しておられることでしょう。私は横になりながら菊花の紋章に心の中で手を合せ最後の焼け落るのを見届けました。明日からの勤務先もなくなり、涙がとめどもなく流れたものです。
この度のは「新兵器」だと言うことは聞きましたが、その時は原子爆弾など考えもおよびませんでした。六日の夜はそのまま野宿しました。翌七日陽が登りはじめると、私達の所にも日がさしこんで暑くなり出しました。日陰のある家屋が残っていて空屋に寝せてもらいました。そこも土壁臭い匂いでした。
一人そこに寝かされ何を考えることもなく眼をつむっていました。うとうと眠ったのでしょうか、話声に眼が覚めると、長寿(ながとし)叔父が来てくれたのです。様子を見に来てくれたのです。叔父は祇園の三菱造船の軍事教練の教官(少尉)でした。
親類の人達の安否も気になり探しに来たのです。「お母さんが心配しているよ。元気を出しなさいよ」と弁当をくれました。母が作ってくれた弁当を手にしながら、思いは早く家に帰りたい。でも一人では帰られない。心の中で「お母さん」と叫び続けました。母が結んでくれた梅干弁当はとても温かく、おいしかったのです。
昼過ぎになって、永田軍曹と、久保曹長が担架で運び出され、野原にでも置かれたのでしょう。水を汲んで来てやる言われたのですが、私の周囲の人達も、「水を下さい」「水を下さい」と言っていた。軍曹は少しづつですよと言って、水筒を渡されたらしくでも全部飲んでしまったらしく、軍曹はおこっていました。とうとう私は水を口にすることなく戸坂の小学校まで運ばれましたが手当を受けるどころか負傷者がいっぱいで校庭にも入れず、しかたなく近くの民家に泊めてもらうことになりました。
そこの家で夕食(オカユ)を一膳いただきました。友人は副官部の山崎さんと高東さんと三人でした。山崎さんは元気でトイレにも連れていってもらいました。又モンペの余分があるからはきかえなさいと、はかしてくれました。
爆風によって出血がありだしたようですが少しでしたので助かりました。夜になりそこの奥さんが富山の置き薬で火傷の薬(黒い灰の様なもの)を顔、両腕、両足、すね、顔等、あそこも、ここもと初めて薬を塗ってもらいました。
「何処に帰られるの」と聞かれるので、私は芸備線の中深川で神職の娘で久都内と言いますと、そこのおばさんは「それでは、口田村落合小学校に先生をしておられた方がおられるでしょう」と、はいそれは私の父です。でも父は私が六年生の時亡くなりました。「そうですか、私は父さんの教え子ですよ。私は口田から嫁いで来たのですよ。」と申されます。亡父の教え子と言う方に手厚い看護を受け何か胸がじんときて親しみを覚えました。その時名字を聞かなかったことを後悔しています。
翌八日お昼近くになり久保曹長と永田軍曹によって、いよいよ我が家に帰られるのです。山崎さんや高東さんより先に帰してもらえたのです。トラックに乗せられて仰むきに寝るので背中が振動で火傷が痛むのです。でも我が家に帰られる嬉しさの方が大でした。
途中トラックを降りて、口田小学校の運動場に水道の蛇口があるのを見つけられ、手拭を濡らし、真上から太陽が照りつづけるので顔に手拭をかけて下さいました。それもすぐ乾きます。
トラックは自転車屋の家からは小路なのでそこから入らず、戸板をかりて家まで二人で運んで下さる。まぶしいので眼をつむっていますと、近所の人々が寄り、手拭を取るのです。「生きておられるの」とささやく声が耳に入ります。とうとう待っていた我が家に送り届けてもらいました。
座敷に床をとり寝かされました。お母さんこんな体になったの顔もやられたのと言うと母は「何を言っているのそんな軽い傷で泣くんじゃないの兵隊さん達のことを考えなさい。戦争でたたかっておられるのよ」と叱りました。太田の叔母は先づ傷の手当をしなくてはと裁物(たちもの)鋏で上衣、ズボンを切りましたが火傷のひどいのにびっくりしたのでしょうか、そばにいた人も只黙って見ているだけで、手当の薬もなく、お医者さんを呼びにいったのです。
近所の人達が次から次に見舞に来られ、キュウリをしぼり汁をつけると良いとか、ドクダミを煎じて飲ませてあげなさいとか、枕もとはいろいろでした。家に帰った安心か私は眠くなり話声も遠くに聞こえてきて眠ってしまいました。八日の昼過ぎより母の手厚い看護が続きます。
二ヶ月は寝たきり腕は天井から紐を下し右腕をつっていました。後側は火傷で真上を向くことが出来ず横向きに寝るのですぐ腰骨が痛く寝返りもままならずホトホト困りました。一番困ったのはトイレでした。おしりまで、火傷しているので、便器も置けなく、しかたないので、母が両手の上に紙を広げ、母さんが受けてあげるからと言って、大便を達したものでした。早く歩けるようになりたい。そればかりでした。母も看病の疲労で持病の肋膜が悪くなり微熱が出るようになりました。でも母は、お父さんの七年間の看病の勲章なのだから大丈夫心配はいらないよと言ってくれました。当時の母を想うと感謝してもしきれません。でもその母も他界してしまい、今でも想出せば涙するのです。
お医者さんが傷のカサブタを取る方がよいと言って顔のカサブタを容赦なくバリバリ、はがれるのです。とても痛いものでした。右腕のカサブタを押すとジュウブと下からうみが出るのです。そのカサブタが痛くて取れないでそのままにしておりました。全治した時は、ケロイドになって跡が残っています。足は火傷独特の白くまだらになってしまいました。
苦しい闘病生活は全快まで三ヶ月かかりました。一人で何事も自分の思うまま出来る嬉しさ、皆の親切で生きることが出来ました。
広島市民と、共に廃虚の熱い灰の中から立ち上がり復興を達成しました。その苦闘を支えたのは「被爆者」なのです。
核兵器廃絶への強い願いと、それを国の内外へ叫び続けねばならないと、義務を感じております。
昭和六十三年四月二十七日
賀川智子
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