昭和二〇年八月六日 私は広島市立第一高等女学校(現舟入高校)の四年生で一五歳でした。
私達四年生は南蟹屋町で日本製鋼所へ動員され鉄砲の丸(たま)を作っていました。一昼夜四交替制でした。
八月六日は久し振りの休日で南段原町(現南区段原南)の自宅にいました。空襲警報が解除されたので、母・弟・私の三人は庭に作った防空壕を出て、私は座敷の掃除をして、南向きの縁側から箒を持って真っ青な空を眺めていました。突然空が真っ白になり何だろうと思い乍ら部屋を反対の方向(北向き)へ歩み始めると息が出来ない爆風が吹いてきたので顔を両手で覆い両耳を指で押え畳の上に伏せました。どれくらいの時間だったかわかりませんが、気が付いたら終っていました。伏せる時は死ぬのかなと思ったのですが、気がついた時は助かったんだ、二年前に亡くなった父が助けてくれたんだと思いました。胸の膨らんだ部分の右側には五糎角くらいの窓ガラスの割れた破片が二カ所に突き刺っていました。抜きましたが痛みはなく、血も出ませんでした。炊事場にいた母は幸い怪我はなく、私の胸のガラスを抜き、小さな破片が残っていてはと口で一所懸命吸ってくれました。
幸い怪我は、化膿することなく傷跡を残して治癒しました。
家の屋根瓦は下に落ち床の間の壁はS字形に曲っていました。私が伏せた部屋は窓と壁が半々の構造で窓は壊れガラスの小さい破片は箪笥の横面に無数に突き刺り、壁は内側へ倒れていました。弟は幸い怪我はしませんでした。
朝食を食べていませんでしたので、母は仕度にかかりました。
外に出て見ると他の家々も同じ様で、あたりは暗くほこりだらけの空でした。沢山の方が逃げてこられました。両手を前に出してボロ布を下げておられるのかと思ったら皮がぶら下っていました。
私はこれは地獄だと思いました。
印象が強かったのはお母さんが赤ちゃんを背負って裸足で、ご自分の左肩は切れてポカット割れていました。赤ちゃんは死んでいたかと思いますが、母が気の毒に思っておむすびと、麻裏ぞうりをあげました。私は今八六才ですが、大分記憶も薄れているかと思いますが、書かせていただきました。
私達がこれくらいですんだのは比治山のお蔭げでした。二度とこんなことがないことを祈ります。
ピカドンと言いますが、私達はドンの音は聞こえませんでした。又きのこ雲も見えませんでした。
|