亀岡信男(かめおかのぶお)
広島市東区牛田本町
大正一四年生 八三才
執筆時期 平成二〇年一〇月一二日
被爆地(被爆者健康手帳 広島市段原大畑町 爆心地から一・七キロメートル)
被爆したのは猿猴川にかかっていた大正橋の上
被爆時 年令 二〇才
被爆時住所 広島市東白島町
昭和二〇年八月六日(月)朝七時頃私は広島市大洲町大成工業(株)の事務所に居た。
五日は日曜出勤して宿直勤務を終え、三篠町の長兄、河本隆幸から家財疎開の為に借りたリヤカー(重荷用自転車に側車を付けたもの)を返へす為七時三〇分頃に会社を出た。
途中空襲警報が出たので、大正橋(現在のものより約二〇〇メートル下流)そばの防空壕へ退避した。間もなく警戒警報に変ったので、上空を見上げると飛行機雲が一本だけ見えていた。大正橋を大洲側から段原へ渡りかけた丁度大正橋の中間点あたりに差しかかった処で、目の前が「パッ」と、赤黄色になり、「ツーン」と大きな耳鳴りがした。一時気を失しなったと思うが気がついた時はリヤカーは前方三メートル位の処にあり、着用していた戦闘帽とメガネは爆風で何処かへ飛んだと見えて、無くなった。
運悪く近くへ爆弾が落ちたと思いとにかく東白島の家まで帰へるつもりで爆風で車輪が三本ともパンクしたリヤカーを引っぱって橋を段原側へ渡ろうとしたら、段原の河岸に建っていた家が一斉に火を吹き燃え上った。周囲を見ると橋の欄干が北側は橋の上に、南側は川に落ちて無くなって居り、下をのぞくと川の中で二、三人の人が落ちたとみえ泳いで居た。その時段原の方からワンピース姿の女の子が身体の左半身は火傷で頭から血を流し右手を上げて泣きながら橋を渡って来たのを見て、これでは東白島の家も火事だろうと思い一応会社へ帰へって見ようと、大正橋から一〇〇メートルほど行った大洲へ引返した。大洲の道路でバスが止っていた。若い男の車掌さんが顔を真赤にして止ったバスの側に居たので「あんた火傷をしているよ」と云ったら「あんたも真赤だ」と云われ、その時初めて顔がヒリヒリすることに気付き手を見ればハンドルを握っていた両手が真っ赤になっていた。
とにかく会社へ帰へろうと大洲通りを東へ行った。途中に救護所がありなにか薬があればと思い寄ったら火傷の薬や油類はなくなったのでこれでも利くはずだと醤油を顔や胸、両腕のひじより前面に塗って呉れた。
それから五分余りで会社の前の土橋を渡る頃には目がはれて前が見えなくなりだし、事務所の前で大声を上げたら二、三人の人が出て来てリヤカーからおろしてくれた。
当日の午后からは会社の社員の中村さんという女子事務員の家が近くにあったのでそこの一室を借りることになった。夕方には口がはれて何も食べられないので麦わらストローでお茶を飲んだ。薬がないのでキュウリ、茄子等野菜のしぼり汁を脱脂綿で火傷の上から塗るぐらいであった。
この侭ではどうにもならず幸い三原市糸崎町松浜に私の育ての親の伯母になる、河本サカノが居るので、会社の三浦さんがつれて行ってやると云って呉れたので八月一一日頃向洋駅から山陽線に乗り呉線経由糸崎行で糸崎まで帰へった。
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