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原爆体験記 原爆投下その前と その後 
椿原 歓子(つばきはら よしこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所 広島市己斐町[現:広島市西区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

昭和二十年その頃の日本の国民は何年もつづいた戦争で食べるものも不自由で農家でもお米を供出し、白米は食べられませんでした。おかゆやさつまいも、麦のたくさん入ったぱさぱさごはん、大根ごはんなどでした。いつもおなかがすいた感じでした。着る物もお古で布の当ったものでした。靴も売っていません、稲わらの有る家はおじいさんおばあさんなどにわらぞうりを作ってもらって学校にはいて行くのですが男の子達は一日でそのぞうりもやぶれて夕方には素足で帰ってくる子もいました。うら山で杉の木って来て下駄を作ってもらへる子達は良い方でした。

その頃は「ほしがりません勝つまでは」と言う言葉がはやっていました。学校に行っても空襲警報が出されると自分達で堀った防空壕に入ってしばらくじっとしているのです。勉強も出来ない毎日でした。その頃隣組では若いお母さん達が集まっては、竹槍など作り敵に向って突く練習や、爆弾が落ちて火事になった時に備へる、バケツリレー訓練などをしていました。広島の被服廠や呉の工廠では空爆で焼夷弾など落されて多くさんの女生徒さん達が死んでゆき、大変な事だと戦々恐々とし毎日を過していました。そんな時、昭和二十年八月六日、私達は母、兄夫婦と子供二人、私達夫婦と、弟夫婦と子供一人の計十人で暮していました。この時私のお腹には四ヶ月目に入った長男がいました。主人は国鉄に勤務して、軍事物資を運んでをり八月五日の日に出勤して行きました。弟は広島市市立中学校(今の基町高校)に勤務しておりました。

八月六日朝弟は二年生の生徒全員で天満町に建物疎開に行くとの事で出て行きました。その時一組だけは別の所に防空壕を堀りに行くとの事でした。私はそれから掃除をすませて、洗濯をしようと思い手洗に湯を入れ石鹸を取ったところで、ピカッと光り何秒かしてドッカーンと言う大音響と共に家の中はガラスが全壊し床も畳も土間もガラスがとび散って足の踏み場も無い有様でした。そうこうする内に又B29が来たら大変と一同防空壕に入りました。その後は何事も無いので、子供達だけ残して家が気になるので帰りました。屋根瓦はあちこち落ち、天井も吹きとんで空の見える所もありました。屋根は男性に直してもらって、私達は先づ座敷から畳の上のガラスを掃き取り柱にささったガラスを抜きと皆んなでてんやわんやでした。屋根もやっとの事で直り、ほっとしていると空が真黒になり、しばらくすると真黒な雨が降って来ました。川の水も眞黒です。二三時間は降ったと思います。やっと畳の上で座る事が出来るようになりました。その時はまだ市内が全滅しているとは知る由もありませんでした。

それからどれ程の時間が立ったでしょうか、ほっとしていると玄関で「ごめん下さい」と言うような声がしたので出て行って見ると六人の少年が立っているではありませんか、「どうしたの」と聞くと「木原先生が己斐上の椿原におばさん達がいるから行きなさい、と言はれたので来ました」との事、私は生徒さん達を見てびっくり致しました。顔は焼けてどの顔も同じようではありませんか。半袖シャツも焼け、名札も焼けて名前もわかりません。袖口のところから皮膚が手袋を脱いだように。爪のところでぶら下っているのです。よくこんなに全身やけどして、天満町からここまで歩いて来られた事だと、涙がとめどなく流れ出ました。「はっと」我に返り思い直して、これは大変だ今亡くなられたら名前もわからなくなると思い急いで一人づつ名前をきいて書き、枕元におきました。名前は皆しっかりとした口調で言はれました。部屋はきれいに掃除がすんでいたので敷布団、毛布、タオルケットシーツなどありったけのものを敷きつめて、一人づつ休ませて上げました。それから後もつぎつぎと来られ、家に入れなくなったので、集会所を借りて二ヶ所で対応致しました。全員で三十人余り来られたと思います、薬はおき薬があるぐらいです。近所から赤チンを集めてつけて上げるのですが全身やけどですので赤チンもアッと言うまになくなりました。キウリやジャガいもをすりおろしてつけましたがもう傷口は化膿していました。そしてすぐに「お水を下さい」「お水を下さい」と言はれましたがもう飲む力はありませんでした。綿花に水をひたして少しづつ湿らせて上げる程度です。一人づつ湿らせて上げて廻るのですが、次に廻って来るともう反応が無いのです、私は水を上げ乍ら心の中でこんなに苦しんで死んで行かれるのに、何もしてあげられなくてごめんなさいねと念じ乍ら泣き泣きさせて頂きました。

又親達はどんなに心配して居られるであろうかと身を切られる思いでした、今こうして書いている時も涙が出て思い出しては又泣いています、今迄唯にも言えなかったのはこの悲しい事を思い出したくなかったのかと今頃気付きました。そして二日目頃から二人、三人と亡くなっていかれました。主人達は亡くなられた方をリヤカーにのせて、私が書いておいた名前を切り出して来た青竹にのり付けして己斐国民学校もってゆき、一人づつ大切に火葬して青竹の中にお骨を入れもって帰って、仏間にお供して親達が迎えに来られるのを待ちました。これが十日余りつづいたと思います。弟は部屋にねかせてある生徒さんの事を私達に「よろしくたのみます、のどがかわいているのでたびたび口を湿らせてやって下さい」と言っては、毎日毎日行方不明の生徒さんをさがし求めて焼野原やもえている火の中を歩き廻りました。そして防空壕を掘りに行って生き残られた生徒さんに指示して心死に全員の安否をたづね廻りました。しかし結局、教職員五名を含む三百七十一人の死亡者の内百五十一名の行方不明者で遺体発見されなかったのです。又親が亡くなられてお骨を迎へに来られなかった方もありました。何日かしてお骨を迎へに来られた方は親がしてやれなかった事をして頂いたとお礼を述べられ悲しみの涙でお互いに抱き合って泣き崩れました。

全部のお骨がそれぞれ家族のもとに帰られたのは、一、二ヶ月はかかったと思います。  

引取り手の無いお骨は市の方で集められたと思います。そして一人だけ生残られた生徒さんがぼく一人になったので帰りますと言はれ八本松まで鉄道線路を歩いて帰られました。でもこの生徒さんも自宅で母親に看取られて亡くなられました。後日お母様がお礼に来られ互に涙にくれました。弟は生徒さん全員の死亡確認行方不明者確認を済ませた事を私達に話し十二月に入って心身共に疲れ切って、床に付き一年後の昭和二十一年九月十七日、生徒さんを追うように他界致しました。行年三十才でした。私はどうしてこのように一生懸命にさせて頂いた人が死ななければならなかったのでしょうか、残念で悲しくてたまりませんでした。弟が亡くなりましたので生徒さんのお名前も知る事が出来づ御供養をしたいと思い乍らそのままになっていたのです。私は亡くなられた方の名前が知りたくて、考へた末に思いつき平成十七年七月に己斐上公民館の館長さんの要請により書かせて頂いた体験記を広島原爆資料館にもって行きました。資料館では大変よろこばれ寄贈して下さいとの事、私はどうぞお役に立てて下さいと納めさせて頂きました。その時全部では無いのですが一部の名簿を頂きました。一名づつ名前を書き御供養させて頂きましたが全員ではないので、ずっと気にかかっていました。そして平成十七年九月に私の体験記が国立原爆死没追悼平和祈念館の御要望により寄贈させて頂きました。その体験を読まれた、中国新聞社の新宅愛さんと言う記者の方から体験記の事でお話をきかせて下さいとの事で二三度お話を致しました。その記事が平成二十年八月四日「学徒の最後をたどる記憶」と題して中国新聞にのせられました。この記事を見られた生徒さんのお姉さんの德永さんと言う方が「あの時弟がお世話になった人だ」と一度はお礼に行ったけどもう一度お礼に行きたいとの事で八月二十六日に私の家に来られました。お互いに六十余年をすぎていいおばあさんになっていますがあの時の事を思い出して悲しんでばかりいても故人もよろこばない。これを新らたな出合として、若い世代に原爆と戦争の無い事がどんなに幸せかを伝えてゆきたいと、今後も交流を続けて行く事を約束致しました。そしてこの時、記者の新宅愛さんが、広島市立中学校の死没者全員の名簿をさがして下さいました。一人一人の名前を書き御供養をさせて頂きました。六十余年ぶりにやっと成しとげた事、私の使命と思って居りまして、心から安心致しました。ここで一寸後にもどりますが、八月六日のピカドンの日、初めに申しました、一組だけ防空壕を掘りに行った生徒さんの一人が己斐上に住んで居られます。

平井さんです。平井さんは平成二十年八月四日の中国新聞を見て「木原先生が椿原さんの弟さんだったとは知りませんでした」言はれびっくり致しました。平井さんが言はれるのに八月六日の朝スコップをかついで現場の近くまで行った時、ピカドンに逢いましたが自分達は元気なので弟や生徒さんのいる天満町に行ったそうです。その時びっくりしたそうです。友達の顔も名前もわからないようなやけどですから「木原先生の言はれる通りに」二人一組で伝令に走ったそうです。先程の德永さんのお家へも亡くなった事を伝えに行ったとの事、これが何日つづいた事でしょうか‥

平井さんはお家もこわれ親も亡くなられて、ねる所もなく食べる事も出来づ、おじいさんが北海道に居られたので行きますと「木原先生に言って証明書を書いてもらった」と言はれました。北海道で二年程居られ広島に帰って己斐に住んで居られるのです。平井さんはづっと「木原先生はどうして居られるのであろうか」と気にかかっていたとの事、やっとわかってお墓参りが出来てうれしく思いますとの事でした。私もやっと六十余年間の戦後が絡ったと思います。本当に安心致しました。

皆さん、どうしてこのように国と国とが戦争をするのでしょうか?又一舜にして人類を滅亡さすようなものを作るのでしょうか?そしてそれを使うのでしょうか。私にはどうしてもその答えが見つかりません。今尚原爆症で苦しんで死んでゆく人が後を絶ちません。今若い皆さんが立ち上って広島から戦争と原爆のおそろしさを世界に発信して行って下さい。この事をこの記事を読まれた皆さんにバトンタッチ致します。どうか皆さん受取って下さい。重ねてお願い申し上げ、私の原爆体験記とさせて頂きます。誠にありがとうございました。

平成二十二年二月十一日

 

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